三太・ケンチク・日記 -6ページ目

目黒区総合庁舎(旧千代田生命本社ビル)を見学した!


過去にこのブログで、旧千代田生命本社ビル現目黒区総合庁舎について、記事にしたことがあります。千代田生命本社ビルといえば、村野藤吾の最高傑作のひとつです。それが、ひょんなことから目黒区役所に売却されて様変わり、区民が誰でも自由に利用できる施設になりました。元々生命保険会社の本社ビル、つまりオフィスビルですから、利用勝手から言えば、区役所の本庁舎になっても、なんの不思議はないのですが。ただ本社ビルですから、目玉は幾つかあります。



ひとつは車廻しの玄関のキャノピー、つまりですね。それからお客様が最初に入る空間、玄関ホール、これは見事なものです。それから、玄関ホールからそれぞれの部屋に行く動線上にある、優美な曲線を描く廻り階段です。日比谷の日生劇場のロビーにある階段と同じ形状です。それから1階の茶室ですが、これは自由には見ることができません。帝国ホテルにも、高輪プリンスホテルにも、村野茶室がありますね。その代わり、といっては変ですが、池に面した休憩するための和室が自由に利用できます。




先日、目黒区役所へ行く機会があり、駐車場の判子をもらう関係上、受付に「見学させてください」と一応おことわりして、判子をもらってから、1階の茶室廻り以外、この時とばかりに画像に収めてきましたので、ここに掲載します。ついでに、ちょうどお昼時だったので、区役所の食堂でお昼の「定食」を食べてきました。セルフサービスでしたけど、安いです。それにしても目黒区民は恵まれています。日本最高の建築家・村野藤吾の設計した建物を自由に使えるんですから。



関連記事:旧・千代田生命本社ビル

「エプソン品川アクアスタジアム」へ行ってきた!


仕事の打ち合わせが思いの外早く終わったので、さて、どこかへ行こうかと思い、でも今更お台場でもなと思い、暑い中第一京浜を品川方面へ車を走らせていると、ふと思い出しました。たしか、前に話題になってたよ、品川プリンスホテルに水族館ができたって。よし、これはチャンスだ、行ってみようと。ということで、品川駅を通り越し、Uターンして旧品川パシフィックホテルの横の「ざくろ坂」を上り、新高輪プリンスホテルの横を左に回り、戻るようにして品川プリンスホテル裏の駐車場へ。ずいぶん坂を上がったので、駐車場のレベルは7階、目指す水族館はエレベーターで3階に下りて、また回り込む。なんだかよく分からないぐらい標示板に従って、グルグルと回らされました。




やっと着いたそこは「アトラクションズスクエア」、映画館、水族館、遊園地、レストランなど、さまざまなお遊びが詰まった「エンターテインメントワールド」、複合娯楽施設ですね。なにはともあれ一路水族館へ。「ドルフィンパーティー」という名のメリーゴーランドが。その後ろにチケットの自動販売機。チケットを買うところがとんでもなく離れていました。また戻って、エスカレーターに乗って上階の水族館へ。あれっ、閑散として人が少ない。夏休みも終わって一段落なのかな?と思いきや、水族館の中へ入るといるはいるは、たくさんの人が若い男女のカップル、若い親子連れ、それに付き添いのお祖母ちゃん、がほとんどです。




水族館といってましたが、正式名称は「エプソン品川アクアスタジアム」、頭にエプソンが付くのは、最近流行りのネーミングライツ(命名権)という広告手法ですね。オープンは4月8日。もう5ヶ月も経ちました。ゴールデンウィークは3時間待ちだったとか?入場料は大人1800円、ちょっと高いような?目玉はなんと言っても20mもの長さの「サメとエイの海中トンネル」、これは圧巻でしたね。直径25m、深さ5mのプールで行われるイルカのショー、と言っても、見慣れた演技なので、あっけなく終わりました。そして、よかったのは、マンボウとペンギン、ですね。




約300種、20000点の海の生き物が集められているようですが、やはり他の水族館と比較すると、小さめの水族館です。「海の魚」をじっくりと観察したい方には、ちょっと期待はずれですね。都心部にあるのだから、これも仕方のないこと、「デートスポット」として考えれば、それでいいのかもしれませんが。



都内近郊の水族館といえば、サンシャイン国際水族館東京都葛西臨海水族館、このふたつはよく行きました。そうそう、品川水族館もあります。ちょっと離れると、八景島シーパラダイス新江ノ島水族館がありますね。ちょっと過当競争気味ですね。「アクアマリン福島」の記事をこのブログで書いたことがあります。それぞれ特徴があって面白いですね。


「エプソン品川アクアスタジアム」HP

過去の記事: 「アクアマリンふくしま」の思い出

山形で日本一の芋煮会 河原で3万食振る舞う


ショベルカー直径6mの大鍋を使って3万食分の「芋煮」が調理された「日本一の芋煮会フェスティバル」=4日、山形市(共同)


東京人にとって今ひとつ分からないのが、山形宮城で今ごろから催される「芋煮会」!会社でも町内会でも自治会でも学生でも、人が集まるとすぐ「芋煮会」だそうです。河原という河原は芋煮会一色になるそうです。陣取り合戦が大変?「th3たかはしさんのにっき 」によれば、山形宮城はそれぞれ違うらしい?牛肉豚肉の差?はたまた豚汁の変形か?



芋煮ってしってる?山形人秋の川原里芋を煮て喜ぶ風習のことだよ。里芋牛肉、こんにゃく、長ねぎ、きのこなんかをしょうゆで煮るのが本場・山形流の食べ方。山形の上のほうの地方や宮城県に住む人の作る芋煮は、味噌味がベースで、お肉に豚肉を使うのが主流だとか。内陸の人間から言わせれば、それ、とん汁っていうやつだとおもうんだな。」と、まあ、このような違いのようです。(勝手に引用してごめんなさい)


東北地方の名物料理「芋煮」を直径6メートルの大鍋で作り、3万食を振る舞う「日本一の芋煮会フェスティバル」が4日、山形市の馬見ケ崎河川敷で開かれた。山形市では朝まで降っていた雨は昼までに上がったものの、最高気温が25.5度と平年よりも肌寒く、集まった人は温かい芋煮を楽しんでいた。芋煮会は河原で、家族や友人らが集い、芋煮を作って楽しむ東北地方の秋の恒例行事巨大鍋には約6トンの湯を張り、中にサトイモ3トンやこんにゃく3500枚、牛肉1.2トンなどを入れ、しょうゆで味付け。砂糖以外の材料はすべて山形県産だ。完成した芋煮は2台のショベルカーで小分けされ、300円以上の協賛金を払った人々に配られた。ショベルカーはアーム部分を分解して機械用の油を洗い落とし植物油を差してある。毎年来ているという宮城県塩釜市の会社員(53)は「宮城県でも芋煮は食べるが、大きな鍋で作った方がずっとおいしい」と満足そうだった。
共同通信:9月4日



山形の秋の風物詩 「日本一の芋煮会フェスティバル」をご存知でしょうか。山形では秋になると家族や友人達のグループが集まり、河原で石を積んでかまどを作り、里芋、牛肉、コンニャク、ネギなどを入れた野外鍋料理を楽しみます。そんな芋煮の季節の到来を告げるのが、毎年9月の第1日曜日に山形市の馬見ヶ崎河川敷で行われている 「日本一の芋煮会フェスティバル」です。これは、山形商工会議所青年部が平成元年に始めたイベントで、6mの大鍋里芋3t牛肉1.2tコンニャク3,500枚ネギ3,500本、味付けの醤油700リットル、隠し味に日本酒50升砂糖200kg、そして水6tを入れ、6tの薪(ナラ材)で煮炊きする、おいしさもスケールもまさに日本一なのです。
日本一の芋煮会フェスティバル 」HPより

ビリケンさん東京へ 「ハチ公」と交換で調印式


東京へ遠征する通天閣の福の神「ビリケンさん」(左)と名残を惜しむ桂三枝さん。右奥は交代で展示される東京・渋谷の忠犬ハチ公のレプリカ=1日午後、大阪市浪速区(共同)


東京人には、いまひとつ分からないのが「ビリケンさん」のことです。その「ビリケンさん」の本物が東京に来るという。渋谷の「忠犬ハチ公」と交換トレード?ハチ公は、もう通天閣へ行ってるようですから、レプリカですね。渋谷にハチ公がいないのでは、渋谷でなくなっちゃいますからね。この騒ぎ、「自由の女神」がお台場へ来たときとなんか似ています。東京の皆さん、この機会を逃さずに東急本店へ行って、「ビリケンさん」の足の裏を触ってきましょう、なにか御利益があるかも?!「忠犬ハチ公」の方は、本物に触ってもなんの御利益もないですけど。その辺が東京と大阪の差かもね?



浪速のシンボル通天閣(大阪市浪速区)に祭られている福の神「ビリケンさん」が、文化・観光交流大使に起用され“上京”することになった。代わりに、東京・渋谷からハチ公像の等身大レプリカが1日、通天閣に到着。記念の調印式が行われた。22日から渋谷の東急百貨店本店などで行われるイベント「大・大阪博覧会」の一環で、ビリケンさんが通天閣を離れるのは1980年に鎮座して以来、初めて。ハチ公像は1日、通天閣5階の展望台に展示された。式には両者がそろって“出席”。落語家の桂三枝さんが立会人を務め、両者の足印が押されたパネルを前に「東京の人にビリケンさんを知ってもらい、1人でも多く通天閣へ来てもらいたい」と期待を込めた。ビリケンさんは20日、飛行機で出発の予定。
共同通信:9月1日


大・大阪博覧会 in SHIBUYA

吉田修一の「東京湾景」を読んだ!


吉田修一の本は、芥川賞を受賞した「パークライフ」を最近読み直し、その後、「ランドマーク」を読み、そしてこの「東京湾景」を立て続けに読みました。つまり、3冊目、ということになります。山本周五郎賞を受賞した「パレード」を読みたかったのですが、今のところ手に入らないので、先にブックオフで手に入ったこの作品を読むことになったわけです。


本の帯には、「今度こそ、信じたい」「バカな女になれたらいいのに」。東京湾岸を舞台に描かれる、寄せては返す強く儚い想い。乾いた身体と醒めた心を潤す、長編ラブストーリー。とありますが、これだけではまったく作品の内容を表していません。というか、これだけでは誤解されやすい表現です。


東京湾景」、僕が読んだ2作と比べると、格段に底が浅い、というか、薄っぺらな作品です。これが芥川賞、山本賞受賞作家の作品か、と言いたくなります。ドラマ化されて、「月9」で放映されたようですが、ここではそれについては触れません。なぜなら、僕がそのドラマ化されたものを見ていないこともあります。そして、在日韓国人社会を組み込んだ、かなりの部分、改編されているようなので。


最初がメールだったから仕方がないかもしれないけど、なんかずっと、お互い相手を探っているっていうか・・・。信じようとは思うのに、それがなかなか出来ないっていうか・・・」亮介の声を聞きながら、美緒は窓辺に近寄った。「ほんと、なんでだろうね?」


品川埠頭の船積み貨物倉庫で働く亮介対岸のお台場にある大手石油会社の広報部に勤める美緒、二人を結びつけたのがメールの出会い系サイトという設定です。「会うのなら羽田空港がいい」という「涼子」からのメールで、「了解。羽田空港の出発ロビーでに8時」と、亮介は返信します。どうして二人があえて出会い系サイトを利用することになったのか、その必然性は詳しくは描かれていません。「涼子」は偽名だし、最初から二人は大きくずれています


「涼子ちゃんって、何やってる人?浜松町で働いているんだよね?」「そ、そう、浜松町のキヨスク」、もうこの辺から嘘をついてることがみえみえです。半身の構えです真剣な恋愛などはほど遠い。羽田からの帰りのモノレールから、貨物倉庫に挟まれた亮介の住んでいる古い木造アパートを二人で見たとき、「亮介くん、あそこで暮らしてるんだ?」というところは、妙にリアリティがあります。しかし、女性小説家が登場して小説「東京湾景」と同時進行するところや、亮介が同棲していた女先生との破局から火傷を負うところ、「真理」が美緒のあとをつけて住所をつきとめるところ、等々、あまりにもリアリティがなさ過ぎです。


東京湾景」では、登場する女性は巧く描けていません。「涼子=美緒」の「乾いたからだと醒めたこころ」は潤すどころか、ますます乾ききってしまいます。「このまま別れたほうがスマートなのかな?それとも、もう一回ちゃんと会って話すべきなのかな?」と美緒が聞くと、「美緒も亮介くんも何も初めてないじゃない。始まるのが恐くて、お互いに目をつぶったまま抱き合ってただけじゃない!」と、声を荒げた佳乃に言われてしまいます。これでは身体の関係はあったとしても、心の関係はまったく成立しません。たとえ亮介が、品川埠頭からお台場まで泳ぎ切ったとしても。


関連記事:吉田修一の「パークライフ」再読!

       吉田修一の「ランドマーク」を読む!

久しぶりに表参道へ!

クレヨンハウス

久しぶりの「街歩き」、恒例のお散歩ですけど、渋谷から宮益坂を上り、246をブラブラと歩いて表参道へ。そういえば、西宮市の画家Iさんの個展をやってるので、一杯やりましょうというメールが着ていたのを思い出しました。午後5時半頃に来てくれということなので、残念ながらその時間には参加出来ないけど、ここまで来たのでちょうどいい、ちょっと覗いてみるかと思い、記憶を辿って行ってみました。たしかメールには「表参道のハナエ・モリ・ビルの路地を入って、クレヨンハウスの前を通りすぎ」とあったような?クレヨンハウスなら、出来たときから何度も行ってるのでよく知っています。


お神輿3台

が、目指すギャラリーはいくら探せども見つかりません。なにしろ画家Iさんの名前も、個展が開かれるギャラリーの名前も、メールを持ってきていないのでまったく分かりません。幹事役のHさんの携帯に何回か電話をしても繋がりません。諦めてお昼を食べに、地下の中華レストランへ。今度はHさんからの電話が2回もあったようで、でも地下なので携帯は圏外で通じません。 後でHさんに聞いたら、その日は両親を連れて車で信州へ、表参道へ戻ってきたのが午後8時過ぎだそうで、僕が電話をした時は高速道路を疾走中だったようです。結局のところ、すぐそばまで行っていながら、見逃してしまいました


表参道ヒルズ

ディオール表参道

食事を終わって、原宿の駅のほうへ向かって歩いていると、人だかりが、そして お囃子の音が聞こえます。表参道でお祭りとは珍しい、なんとお神輿が3台も出ていました。これはしっかり記録しておかなくてはと思い、デジカメで写しておきました。同潤会アパートの跡地は、長い間足場がかかっていましたが、やっと足場も外れ、姿を現してきました。森ビルが開発している「表参道ヒルズ」、安藤忠雄の設計ですが、ちょっと迫力に欠けるようです。足元に店舗が入ればまた違って見えるのでしょうが。「ディオール」も、ケヤキの樹木が生茂って、いい感じに落ち着いています。「TODS表参道」はクレヨンハウスの方からは初めて見ました。表参道のケヤキからヒントを得た画期的な構造体です。さながら表参道は街そのものが「現代建築博物館」の様相を呈しています。


TODS表参道
 

関連記事:表参道のけやき並木

♪原宿、表参道、濡れて青山通り~

「群論・ゆきゆきて、神軍」

2ヶ月ほど前ですが、訃報: 奥崎謙三氏死去「ゆきゆきて、神軍」の主人公、という新聞の記事が目に止まりました。
奥崎謙三氏(おくざき・けんぞう=ドキュメント映画「ゆきゆきて、神軍」の主人公)16日、神戸市の病院で死去、85歳。兵庫県出身。自宅は神戸市兵庫区荒田町2の2の16。太平洋戦争中、陸軍工兵隊の一員としてニューギニア戦線に従軍。旧陸軍の上官らの戦争責任を追及した原一男監督の映画「ゆきゆきて、神軍」の主人公として知られる。69年1月の皇居一般参賀で、昭和天皇に向けてパチンコ玉を撃ち服役した。83年に旧陸軍時代の元上官の長男に発砲。殺人未遂罪などで懲役12年の判決を受けた。著書に「ヤマザキ、天皇を撃て!」などがある。
共同通信社:2005年6月26日



2005年、戦後60周年の今夏、やはり区切りということもあってか、例年になく「戦争」に関する様々な催しがありました。毎年のことですが、「靖国公式参拝」という話題も出てきて、暑い夏は特に「戦争」について考えさせられる季節です。奥崎謙三の死は、戦後の区切りということでは、象徴的な出来事のように思われます。映画「ゆきゆきて、神軍」の公開は1987年です。あれからもう18年も経ちました。あの映画の公開は、単に映画界の出来事というにとどまらず、社会的思想的な事件でもあり、そして政治的な事件でもありました。僕は公開時、どこで観たのか今となってはまったく思い出せません。でも、映画館には2回、足を運んで観ています。テレビでもその映画が放映され、それもたぶん2回は観ています。


映画「ゆきゆきて、神軍」のあらすじは以下の通りです。
神戸市で妻とバッテリー業を営む奥崎謙三は、たったひとりの「神軍平等兵」として“神軍”の旗なびくトヨタ・マークⅡに乗り、今日も日本列島を疾駆する。かつての所属部隊・独立工兵隊第36連隊のうち、ウェワク残留隊で隊長による部下射殺事件があったことを知り、奥崎は遺族と共に真相究明にのりだす。なぜ、終戦後23日もたってから、二人の兵士は処刑されなければならなかったのか?生き残った元兵士たちの口から戦後36年目にしてはじめて、驚くべき事件の真相と戦争の実態が明かされる。



奥崎謙三は、第二次大戦中召集され、独立工兵隊第36連隊の一兵士として、激戦地ニューギニアへ派遣されます。同部隊は敗走をかさね、飢えとマラリアと死に向かって四散、ジャングルの極限状態の中で生き残ったのは同部隊千数百名のうちわずか三十数名であったという。映画「ゆきゆきて、神軍」は、日本陸軍独立工兵第36連隊における同士処刑について、奥崎健三が真相究明に駆け回る執念のドキュメンタリーです。奥崎は、当時の残留部隊隊長や、処刑を実行した下士官らと相対し、いったい何があったのか、なぜ、敗戦後21日も経ってから処刑が行われたのか、必要とあらば暴力を行使しても自白に追い込んでいきます。そして、軍法会議での手続きを踏まずに、濡れ衣を着せて銃殺したこと、その処刑は、残留部隊の空腹を満たすために行われた(つまり、兵士の人肉を食すために処刑した!)という衝撃の事実を明らかにします。


映画「ゆきゆきて、神軍」を観たのは、18年も前のことですから、詳しい内容はよく憶えていません。そう言えば、「ゆきゆきて、神軍」のことを書いた本が1冊あったなと思い、探してみたら本棚の奥から出てきました。実は正直に言うと、ここではこの本を紹介したかった、といっても言い過ぎではありません。松田政男・高橋武智編集、1988年2月15日初版第1刷、倒語社発行の「群論・ゆきゆきて、神軍」という374ページもある分厚い本です。「ゆきゆきて、神軍」の言説があまりにも多いことから、その賛否のすべてを集大成した批評のアンソロジーとして企画されたものです。



1章は、映画とは直接関係ない非専門の人の書き下ろしの論考が収められています。2章は、専門の映画評論家の書いたものを集めてあります。そして付録として当事者である監督の原一男と、主演の奥崎謙三の文章が載っています。総勢54人もの論者がこの1冊のために集められました。いちいち名前は挙げませんが、そうそうたる顔ぶれの書き手です。今回これを書くにあたって、すべてを読み直してみました。読み応えのある本です。「ゆきゆきて、神軍」の社会に及ぼした影響が、この本を読むと、当時のざわめきそのままに伝わってきます。


奥崎謙三は、15世紀のフィレンツェに現れた説教師サヴォナローラのように、人々の罪を問い悔恨を要求した、と言う人がいます。そうかもしれません。結果的には、サヴォナローラが火あぶりの刑になったように、奥崎謙三もこの社会から排除されてしまいます。「ゆきゆきて、神軍」公開後、奥崎は元中隊長の殺害を企て、居合わせた息子に発砲。兵庫県警に殺人未遂容疑で逮捕され、懲役12年の判決を受けて服役することになるわけです。

骨董市で家を買う―ハットリ邸古民家新築プロジェクト


骨董市で家を買う―ハットリ邸古民家新築プロジェクト」という本を、半年前ぐらいにブックオフで購入、やっと読み終わりました。といっても、読んだ時間は今日半日ですけど。其の一から其の十まで、それぞれの章が面白いし、各章の終わりに次の章の展開を暗示する記述がまた次への期待感を高めます。中央公論社、1998年11月7日初版発行です。さすがは作家、読ませます。といってもどんな人かは、ほとんど知りませんでした。


著者の服部真澄、写真で見るとなかなかの「いい女」、髪が長くて黒い半袖に黒のパンツに黒のブーツ、カッコいいんですよ!1961年東京生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、編集制作会社勤務、フリー・エディターを経て作家に。1995年デビュー作「龍の契り」がいきなり直木賞候補に。1997年には二作目「鷲の驕り」で吉川英治文学新人賞を受賞。他に「ディール・メーカー」「バカラ」などがある。と、経歴には書いてあります。残念ながら、僕が読む小説の分野ではないようですが、でもスケールの大きな小説で、その分野では評価の高い作家のようです。



骨董市で家を買う―ハットリ邸古民家新築プロジェクト」という本は、こんな本です。「民家売ります」骨董市でみつけた一枚の貼り紙。それがすべての発端だった…!?怪しい骨董商のみちびきで、福井の廃屋に一目惚れした著者は、東京下町に移築を決意。しかし、肝心の骨董商が宗教にハマり、あげくの果てには雲がくれ。きまじめな建築士と職人たちが日々材木と格闘するも、遅れに遅れる工期足りない予算―次々に迫る困難をくぐり抜け、理想の家を求めた女流小説家が描き出す痛快ノンフィクション。



「秋葉原感覚で・・・」の石山修武がこう書いています。自称「俗物小説家」服部真澄、家づくりに暴走す。貯金ナシ定期収入ナシそれでもこんな家が欲しい。コレワ、彼女のスーパーミステリーよりさらに面白い!まいったな。家づくりの深みにはまつた人間の、底ナシ沼のおかしさ、辛さ、そして不思議な知恵が満載。世紀末爆走住居論。なんだか読み終わると頭がやたら元気になっているのに気付く。自分の家を自分流に建てた力が伝染してくるからだ。



石山センセが余すことなく書いているとなると、僕がグダグダ書き連ねてもあまり効果はなさそうです。がしかし、待てよ、服部真澄は女じゃないの?この本の書き手はご主人になっています。そうです、これはあくまで小説なんです。服部真澄とおぼしき女性作家が、骨董市で仲介者を見つけて、福井まで買い出しに行き、品川に移築する顛末が、実際にあった話に基づいて書かれています。しかし、それをいつも横にいる夫の目で見ているという形式でこの本が書かれています。どちらかというと突っ走り気味な妻と、それを冷静に分析しながら見ている夫の目が相まって、この本を面白く仕立てています。



昔ながらの民家の長所や短所をよく理解し、それでもなお骨太の民家にこだわる。シックハウスや環境問題が大きな社会問題になっている現在、漆喰や土間によって家の中の温度変化をやわらげ、結露と無縁な住宅を、古民家の再生でつくり出すことは大きな意味を持っています。それをスッタモンダの末に実現してしまった女性が服部真澄です。叔父さんの土地を借りられたり、小説がヒットして収入があったことなど、条件が整っていたことはありますが、服部真澄のパワーには驚かされるものがあります。


書斎の方から、妻のいいわけが聞こえてくる。「どうにもこうにも、居心地がよすぎまして、ええ。こんどの家では、なかなか、原稿が捗らないんですよぅ・・・」

「ねじれたトルソ」と名付けられたマンション


スウェーデン・マルメにオープンした「ねじれたトルソ(胴部分だけの彫像)」と名付けられた高層マンションが話題を集めている。部屋はいずれも開放的な間取り大きな窓で自然光を取り入れているのが特徴だとか。(27日、スウェーデン)
EPA=時事:8月29日


画像を見てビックリ、この「ねじれたマンション」は知りませんでした。実際に建っているんですね。北欧はまったく土地勘がないのですが。3月にフランスのカンヌで開かれた不動産国際見本市住宅部門で最優秀賞を射止めたそうです。147世帯が入居可能で、33種類の居室が用意されています。マルメはスウェーデンで3番目に大きい都市人口は25万人で、デンマークのコペンハーゲンから海峡を隔てて22 km離れた位置にあります。コペンハーゲンの中央駅までの所要時間は、眺望が素晴らしいÖresund橋を渡る高速列車で34分だそうです。


このブログでも先日、シカゴのミシガン湖岸近くに高さ444メートル(尖塔部分を含めると610メートル)のビルが出現するという話題を載せました。2006年春に着工、09年の完成を目指している「フォーダム・スパイアー」で、スペイン人の建築家サンチアゴ・カラトラバが設計、表面が流麗に波打つ細長い円錐形。115階建てで、ホテルや住居などが入るという、「ねじれた建築」です。また、吉田修一の小説「ランドマーク」でも、「O-miya スパイラル」という、重箱を少しずつずらして積み上げたような35階建ての高層ビル、「ねじれた建築」が出てきました。


関連記事:

今度は「北米一の超高層ビル計画」だよ!

吉田修一の「ランドマーク」を読む!

「建築家・清家清展」を体感する!


去る4月8日、日本の代表的な建築家・清家清は惜しまれつつ86年の生涯を閉じました。博学で多彩な趣味を持ち、「人生を楽しむ達人」でもあった清家清――。当館ではその人間的な魅力とそこから生み出された珠玉の作品群を、多彩な資料を用いて紹介いたします。特に代表作「私の家」(1954)の原寸大模型からは、清家清が模索した「広く住まい、時に応じてしつらえる 」暮らしをつぶさに体感することができるでしょう。また、本展が清家清の人生よ業績を通して、私たちのくらしと建築について再考する機会になれば幸いです。

(松下電工汐留ミュージアム)


もう3度目かな、「松下電工汐留ミュージアム」に行ったのは。最初は開館してすぐの「ルオー展」、所蔵品は20世紀を代表するフランスの画家ジョルジュ・ルオー(1871‐1958)の油彩や版画作品、約140点です。ルオーの作品を常設展示する小部屋と、展示室がふたつの、小さな美術館です。ルオーの絵画は、皇居に面した「出光美術館」も思いの外、たくさん所蔵しているんですね。浮世絵を見に行ってルオーがあるので驚いた記憶があります。


私の家

次に行ったのは、タイトルは忘れましたが「西沢文隆・作庭展」でした。西沢さんは「ホテル・パシフィック」の設計で知られていますが、坂倉事務所大阪の所長で、坂倉さんが亡くなって急遽坂倉事務所の所長になられた方です。関西に住まわれてるのを活かして、休日は古建築、社寺や仏閣ですね、の実測を長年行っていて、その蓄積は何冊かの本にまとめられています。その時は主に西沢さんが採取した「実測図」を展示してありました。


西沢さんは、あまり最近は言う人はいませんが、単なる関西のローカル建築家だった安藤忠雄を、東京に紹介し支援したことは、知る人は知っています。それまでは建築家は、関西にはまったくいなかったと言っても言い過ぎではないほど東高西低?でしたから。そして今回「建築家・清家清展」ですね。その前に、行ったのはいいけど、月曜日で休館だったことがあったりしました。「松下電工」のショールームだけ見て、カタログを貰って帰ってきたりしたこともありました。なにしろ「汐留再開発」に合わせて「東京メトロ・大江戸線」が開通したので、汐留は一挙に便利になりました。


続私の家

行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし。世の中にある人と住家すみかとまたかくの如し。」清家さんは「方丈記」の冒頭部分をよく引き合いに出して、自分の建築観、住宅観を語ります。同じ雪が谷の200坪ほどの敷地の中で「私の家」、「続私の家」、そして、「倅の家」と住まいづくりが続きました。世間をアッと、いわせる自邸を作って、実際にそこに住まない建築家が多い中で、清家さんの自邸は、世代を越えて実際に住み続けているわけですから、こんな幸福な建築家は他には例を見ません。


さて、「建築家・清家清展」、清家さんの自邸「私の家」の原寸大の模型があるというので、それを体感しに行ってきました。玄関がない、便所にもどこにも扉が一枚もないことで有名なこの家、思っていた以上に広い家でした。ただし、原寸大とはいえやはり模型ですから、材料の質感、テクスチャーが出ていないことや、狭い美術館の中なので庭に対する開口部の広がりも、実感するには ほど遠い感じでした。ビデオでの清家さんのお話や、関係者の証言などを聞いて、また展示されている日頃使われていた身の回りの品々を見るとき、温かい人柄がよく伝わってきました。もう一度書きます。こんな幸福な建築家は他には例を見ません。


清家清のディテール―間戸 まど 窗
デザインシステム (編集)、 清家 清
彰国社 1984年01月








松下電工汐留ミュージアム
関連記事:
建築家の清家清さん死去 戦後日本の住宅設計をリード