三太・ケンチク・日記 -2ページ目

テレビの深夜放送で「タクシードライバー」を観た!

僕が初めてニューヨークへ行ったのが1972年でした。ちょうど4年に一度の大統領選挙の真っ最中で、ベトナム反戦を唱えた民主党のマクガバン候補のチラシやポスターが、ニューヨークの街に氾濫していました。ベトナム反戦運動が各地に拡大、次第に法を無視して過激化していました。共和党から出馬して1968年に大統領に当選したニクソンはベトナム戦争を推進することを掲げて、1972年には民主党のマクガバンを大差で破って再選を果たします。過激な反戦グループが民主党の反戦候補マクガバンと手を結ぶことを警戒し、民主党本部に盗聴器を仕掛けます。72年6月17日に起きたウォーターゲート事件でニクソンは、1974年8月8日に大統領を辞任することになります。



つい先日、テレビの深夜放送で、1976年公開の「タクシードライバー」を観ました。ほぼ30年も前の映画です。今から考えると、僕がニューヨークへ行った時が、「タクシードライバー」の映し出すニューヨークの政治的社会的な状況や街の風景と、ほぼ一致していたことが調べてみてわかりました。実は僕が「タクシードライバー」を初めて観たのは、つい4~5年ほど前です。どうして公開時に観なかったのか、1974年公開の「ゴットファーザーPART2」は公開時に観ているのに、なぜ観なかったのかはまったく記憶がありません。いずれにせよ、この4~5年の間に、「タクシードライバー」は3~4回は観ていて、そして今回です。


タクシー運転手のトラビスは、大統領候補の選挙運動員ベッツィに心を惹かれる。だがデートは失敗。そんな折、トラビスは13歳の売春婦アイリスと出会い、足を洗うよう説得する。トラビスは使命を感じ、アイリスのいる売春宿に向かったのだが。ニューヨークの夜を走る1人のタクシードライバーを主人公に、現代都市に潜む狂気と混乱を描く。ベトナム帰りの青年トラヴィスをロバート・デ・ニーロが演じ、世界の不浄さへのいらだちを見事に表現した。トラビスの強烈な個性は、70年代を代表する屈折したヒーロー像となった。監督は、マーティン・スコセッシ。ホームタウンのニューヨークを舞台に、先鋭な人間ドラマを作りあげた。



ベトナム戦争の後遺症が色濃く覆っている70年代のアメリカ社会がもつ閉塞感。トラビスがタクシーの中から夜のニューヨークで見るものは、売春婦、娼婦、ヤクザ、ホモ、オカマ、麻薬密売人、等々。鬱屈したトラヴィスが「ここを飛び出して何かをやりたい」という気持ちを同僚に相談すると、「俺達は、所詮、負け犬だ。一体何が出来る?なるようにしかならない」と一蹴されてしまいます。それを激しく否定しつつ、孤独な彼は日記をつけながら、この世の中の悪や不正に力をもって立ち向かいたいと考えるようになります。


彼は生活のすべてをそれの実現に向けて準備を進めます。4丁の銃を買い、毎日身体を鍛え射撃の訓練をする。大統領候補バランタインの演説会場に姿を現したトラビスは、サングラスをかけ、頭はモヒカン刈りです。不審な動作をシークレット・サービスに見破られ、追われることになります。逃げ込んだのは売春を行っているアパート。そこでの銃撃戦。恐怖に震える少女アイリス。血がついた手を銃のようにして3回こめかみを撃つ動作をします。トラビスは死んだように動きません



重傷を負った身体も回復し、その後、トラビスの部屋には新聞記事の切り抜きと、アイリスの両親からの手紙が貼られていた。「英雄、タクシードライバー、ギャングと戦う」。トラビスは、ギャングに売春をさせられていた少女を救った英雄となっていました。トラビスは、何ごともなかったように、タクシードライバーとして、ニューヨークの夜の街を流すのでした。


何度観ても素晴らしいとしか言いようのない映画です。ロバート・デ・ニーロの魅力が集約されて出ています。世の中の不条理に立ち向かうアウトローのニヒルな姿は、なぜか成熟した演技の「ゴットファーザーPART2」より前の作品としか思えません。幼い売春婦役のジョディ・フォスター未来の大器を思わせる演技を既にこの作品で出しています。マーティン・スコセッシ監督、タクシーの乗客役で顔を出してますが、この作品が後の「ギャングオブニューヨーク」の布石となっていたのでしょう。1970年代の大都会ニューヨークと、鬱屈した若者の心理を見事に描いた作品は、この作品をおいて他にはありません。

「三井越後屋呉服店」を再現 東京・日本橋



江戸時代に創業し、「現銀掛け値なし」で繁盛した「三井越後屋呉服店」の当時の外観を忠実に再現した「三井越後屋ステーション」が10日、東京・日本橋にオープンする。三井不動産が日本橋の活性化に向け、オフィスビルの「三井第三別館」1階の一部を改装し、内部に喫茶店やスタジオ、展示コーナーを設けたもので、7日、報道関係者に公開された。総工費は9000万円。ビルの建て直しが予定されているため、06年3月末までの期間限定で営業する。「越後屋カフェ」は、米と大豆を中心にしたメニューをそろえた。スタジオでは、日本橋周辺の話を伝える番組を生放送する。江戸時代のたばこ入れなど、江戸の文化が息づく作品をテーマごとに展示するコーナーも設ける。三井不動産は「日本橋の魅力を発信していき、日本橋の過去の栄光を取り戻したい」としている。
毎日新聞:10月8日

三井ビルタワー

旧三井本館

旧日本銀行

三菱地所が「丸ビル」を再開発し、それを起爆剤に丸の内地区をオフィスだけでなく、高級ブティック等の店舗を出店させて、活気を取り戻しています。新興の森ビルアークヒルズに続いて、六本木ヒルズを完成させ、表参道ヒルズが完成間近に迫っています。さて、不動産の老舗、三井不動産はなんとか歴史ある日本橋地区を再興したいと、千疋屋と組んで三井ビルタワーを建設しました。旧三井本館は改修されて、三井家所蔵の美術品3700点を集めた三井記念美術館になりました。日本橋地区全体のイメージアップのため二のアンテナショップのような役割を担っての「三井越後屋呉服店」ですね。あくまでも期間限定で、ビルの建て替えのための一時的なもののようです。僕も一度見ておきたいと思いながら、天気が優れないこともあり、行く機会がつかめないでいます。


道の起点としての日本橋

ここで、「道の起点としての日本橋」を、ちょっとおさらいしておきましょう。
日本橋がはじめて架けられたのは、徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高礼場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は安藤広重の錦絵でも知られています。現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。



橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い、道路整備が行われたのを契機に、同47年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ、同41年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。
中央区:平成12年3月


過去の関連記事:旧日本銀行本店と三井本館のライトアップ

「没後50年 モーリス・ユトリロ展」を観た!

酔い、惑い、描き、祈った。日本で最も人気のある画家のひとり、詩情あふれるパリの風景を描いたモーリス・ユトリロ。今年は、ユトリロの没後50年に当たります。本展では、特に評価の高い「白の時代」の作品を中心に、国内外から集められた初期から晩年までの作品80数点を展観。うち約20点は、国内の展覧会に初出展される作品です。新たなユトリロ像をご覧いただけるこの機会に、ぜひご来場ください。(高島屋HPより)



日本橋高島屋で開催されていた「没後50年 モーリス・ユトリロ展」へ、会期終了間際に行ってきました。デパートの絵画展は、会場が狭い、混んでいる、会期が短い、一歩出ると物産展などをやっていて雰囲気がよくない、等々で、いつもは避けています。しかし「ユトリロ」とあってはしかたがない、行かざるを得ません。ホント、日本人は「ユトリロ」が好きなんですね。と、人のことは言えません。僕も好きとは言えませんが、もう何回となく「ユトリロ」展を観ました。最近では、西新宿の高層ビルにある「安田火災東郷青児美術館」、今の「損保ジャパン東郷青児美術館」ですが、2002年4月から6月にかけて開催された「ユトリロ展」を観ています。



今回の「没後50年 モーリス・ユトリロ展」、NHKの新日曜美術館で「モンマルトルの孤独、モーリス・ユトリロ」と題して、浅田次郎がゲストで放映されました。また、「美の巨人たち」でも放映していました。「今日の一枚」では、今回のユトリロ展に出ていた「ラパン・アジル」を取り上げていました。ふたつとも偶然見ることができましたので、予備知識は完璧?で、その後、高島屋でのユトリロ展を観てきたというわけです。とはいえ、予備知識といっても、ユトリロについてはほとんど言い古されていることばかりです。


ユトリロを語るには、彼の母親をはずしては語れません。ルノアールやロートレックのモデルをしたこともあり、その後画家になった母親シュザンヌ・ヴァラドンとの関係に集約されます。シュザンヌも私生児として生まれ、ユトリロの実の父親もわかっていない私生児であること。恋多き女で、昼はアトリエ夜は男と街へ出る。そうした母親であったために、ユトリロは孤独に苛まれ酒に溺れ精神に異常をきたす。母親は絵筆とパレットをユトリロに与え、それが功を奏して天賦の才を発揮するキッカケになる。ユトリロが絵を描くことによって、母親の注意を引くことができたからであったという。その母親が、ユトリロの友人アンドレ・ユッテルと結婚することになり、ますます酒に溺れ、外出もままならなくなる。そのため、当時盛んに出始めた「絵葉書」を元に絵を描くようになる。



ユトリロの作品は、大きく3つの時代に分けられます。修業時代、黄土色と青を用い、線描を避け、絵の具を厚く塗る「モンマーニの時代」。最もユトリロらしい時代、石膏、チョーク、セメント、砂を混入した白を、卵の黄身を使ってキャンバスに定着した「白の時代」。そして最も長く続いた時代、色彩の幅が広がり、鮮やかな色調を用い、乾いたタッチの「色彩の時代」。今回の「ユトリロ展」も、このような時代区分に分けて、ほぼ80点の作品が展示してありました。思っていた以上にたくさんの作品でした。日本初の約20点とは、やはり新しい作品がほとんどのような気がしました。


ユトリロは、ほとんど独学で絵画を学びました。パリの、生粋の「モンマルトル」の画家でした。消滅してしまった過去の街を生き生きと描き残しました。ラパン・アジルムーラン・ド・ラ・ギャレット、そしてサクレクール寺院、等々、何度も同じテーマを繰り返し描きました。ロートレックの描く華やかなムーラン・ルージュは描かれません。ユトリロの絵には、人物はほとんど描かれていません。描かれているとしてもほとんどが後ろ向きです。帽子をかぶり、大きなお尻をしたご婦人たちです。これは、ユトリロの女性に対する嫌悪感の表れだとも言われています。


51歳で12歳年上の女性と結婚し、やっと平穏な日々を手に入れますが、結婚した3年後の1938年に母親が72歳で亡くなります。彼は祈りの生活を始めます。毎日、祭壇の前で数時間も祈っていたようです。その頃のパリには、ロシアからシャガールが、オランダからはモンドリアン、イタリアからはモジリアーニ、ポーランドからはキスリング、日本からは藤田嗣治がやって来ます。後年、「エコール・ド・パリ」と呼ばれる一群の「異邦人芸術家」たちです。また、キュビスム運動のピカソも挙げられます。しかし、そうした流れとはいっさい関わり合いを持たずに、ユトリロは自分の昔の作品を懐かしみ、模写したりして晩年を過ごします。


最晩年、パリ18区役所から委嘱されたユトリロの作品が2点、同区役所の「ユトリロの部屋」に展示されています。ひとつは、ふんわりと浮かんだ空の下をのんびりと歩いている人たちを描いたもの、もうひとつは、セーヌ河沿いに見えるエッフェル塔を描いたものです。ユトリロの作品としては、これといった特徴もなく、ごく平凡な作品です。しかし、なにもかも達観したような静謐な作品です。このふたつの作品は、パリの現実の街を描いた絵はなく、パリの街のどこにもない、ユトリロが最後にたどり着いた「心象風景」だったようです。この絵が完成した2ヶ月後、ユトリロは71歳で亡くなります。


・ユトリロ展、10/10 まで、その後、横浜高島屋(10/13-10/31)、
 京都、大阪、愛知へ巡回

長距離ランナー円谷幸吉の「遺書」

以前は10月10日が「体育の日」でしたが、今は10月の第2月曜日が「体育の日」として祝日になりました。体育の日が制定されたのは昭和41年です。昭和39年に日本で初めて開かれた東京オリンピックの開会式がおこなわれた日を記念してのことです。ではなぜオリンピックの開会式が10月10日になったのでしょう。日本の観測史上いちばん晴れる確立が高かったのが、10月10日だったからだそうです。今年は確率が当てはまらず、小雨の降るぐずついたお天気でした。



東京オリンピックで思い起こされるのが、27歳の若さで自ら命を絶った長距離ランナー円谷幸吉選手のことです。昭和39年10月21日、陸上競技最終日に行われた「マラソン」は、神宮外苑の国立競技場を出発して甲州街道を西へ走り、調布市西町の今の「味の素スタジアム」前で折り返し、国立競技場に戻って来るというコースでした。前回のローマ大会で、はだしで優勝したエチオピアのアベベは、白い靴をはいて走り、2位のヒートリー(英)を4分8秒も引き離す2時間12分11秒2の世界記録(当時)で独走でした。円谷幸吉は3位に終わりました。(女子マラソンは1984年、ロサンゼルスオリンピックで、初めて実施されます。)



競技開始そうそうからアベベの独走でしたが、2位で国立競技場に現れたのは優勝候補の君原健二でもなく、ベテランの寺沢徹でもなく、円谷幸吉でした。すぐにヒートリーに抜かれてしまいました。それでも円谷は苦しそうな表情で走り続けますが、抜き返す余力はありません。僅かの差を詰めることができないままにゴールし、結局3位に終わりました。2位ヒートリーと3位円谷の差は僅か3秒でした。しかし、円谷幸吉の銅メダル(2時間16分22秒8)は、ベルリン以来28年ぶりで、東京大会唯一の日本陸上の日の丸でした。輝かしいヒーローの誕生でした。「次のメキシコオリンピックを目指します」と、円谷選手は宣言しました。


しかし、メキシコオリンピックの年、円谷幸吉は頸動脈を両刃の安全剃刀で切り、自らの命を絶ちました。昭和43年1月、故郷の福島県須賀川市で家族揃って正月を過ごし、東京の自衛隊体育学校の宿舎に帰ってからのことでした。遺書は2通ありました。1通は体育学校関係者への謝罪、もう1通は両親に宛てたものでした。市販されているコクヨの便箋3枚に万年筆で書かれたものでした。



「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、モチも美味しゅうございました。敏男兄、姉上様 おすし美味しゅうございました、克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。」しそめし、南ばん漬け、ブドウ液、養命酒、モンゴいか、と延々と続きます。そして遺書はこう結ばれています。「父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません何卒お許し下さい。気が安まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。」(須賀川周辺では正月3日にすり下ろしたとろろを食べる習わしがあり、これを「三日とろろ」と呼んだ。)



須賀川市の「円谷幸吉記念館」に、この遺書が保管されています。2年前、たまたま須賀川を訪れる機会があったので、駅前から電話をして場所を確認し、訪ねてみました。お兄さまが気持ちよく迎えてくれて、快く案内していただきました。自費で建てられた住宅の一部を円谷幸吉の記念館として、記念の品々を散逸しないように保存し、見学に訪れる方々をご自分で案内しているとのことでした。入り口の階段を上ると左側に、「忍耐」の2文字が彫り込まれた石碑があります。1軒の民家の庭先には不釣り合いなほど大きなものでした。それは長距離ランナー円谷幸吉が、好んで色紙に書いた言葉でした。


須賀川市の「円谷幸吉記念館」を訪ねたあとに、円谷幸吉について沢木耕太郎の書いたものがあることを知りました。本屋で探しましたが新刊では手に入らず、結局ブックオフで偶然見つかり、手に入れたのが「敗れざる者たち」という文庫本でした。その中の6つの記事のうちのひとつ、「長距離ランナーの遺書」という僅か43ページの、円谷幸吉について書かれたものを読むことができたのが、須賀川を訪ねてから数ヶ月後でした。


円谷幸吉の「遺書


過去の記事:沢木耕太郎の「無名」

「敗れざる者たち」
著者:沢木耕太郎
発行所:文芸春秋 文春文庫
発行:1979年9月25日第1刷
定価:本体457円+税

「夜のピクニック」モデルの水戸一高が「歩く会」


水戸市の水戸一高で恒例の「歩く会」が開かれた。生徒ら約1000人は8日、茨城県大子町を出発一昼夜掛けて65キロを歩き、9日正午前、母校に到着した。同校出身の作家、恩田陸さんのベストセラー小説で来年映画が公開される「夜のピクニック」のモデルで、57回目。作品で生徒は、共に歩きながら語り合う中で、前日までとは違う新しい自分に目覚める。「歩く会」を境に受験モードに切り替わる3年生は「早くゴールしたいけど、でもしたくない」と複雑な表情。今日からは「新しい自分」になる。
毎日新聞:10月10日


小説「夜のピクニック 」は、1200人もの生徒が、朝の8時から翌朝8時まで80キロを歩くという「歩行祭」、夜中に数時間の仮眠を挟んで、前半は団体歩行、後半は自由歩行と決められている、高校生活最後の大きな行事です。学校行事を舞台に、思春期の心のうつろいをていねいに描いた青春小説です。全国の書店員の投票で選ぶ第2回「本屋大賞 」を受賞した作品でもあります。このブログでも記事にしました。それに対してさまざまな角度からコメントをお寄せいただきました。特にの「水戸一高生」からも、コメントをいただきました。水戸一高生「マック」さんからの、今年の「本物」の「歩く会」報告を、以下に掲載します。


本物の「夜のピクニック」の報告です

8・9日に水戸一高の「歩く会」、雨は降りましたが、無事に終わりました☆映画化の影響もあって、記者さんも何人か参加して、最近になく盛り上がった気がします♪早く映画の夜ピクが見たくなりました!!


過去の関連記事はここ


「夜のピクニック」
著者:恩田陸
発行:2004年7月30日
発行所:新潮社
定価:本体1600円(税別)

公園通りは「鬼嫁日記」で埋まる!


渋谷の街へ行く機会が先週2度ほどありました。待ち合わせの時間にちょっと早かったので、時間つぶしに丸井の裏手のドドールでコーヒーを飲みました。2日とも、お昼休みをちょっと過ぎた時間でした。どうして若い娘は平気で人前で化粧をするのか場所柄もわきまえずに?TPOは死語か?ドトールの中は、女の娘の半数が化粧をし、あとの半数は携帯電話でメールを打っています。というのはちょっとオーバーですが、僕から見れば、そんな感じに見えます。それが今の若い娘の昼休みの時間の普通の過ごし方なんでしょうね。



渋谷の公園通りは「鬼嫁日記」の垂れ幕で埋まっていました。「実録鬼嫁日記」、アメーバブログをやってる人は、ほとんどご存じでしょうが、このブログでも記事にしたことがあります。その時は、ブログという形式とその書籍化の問題でした。なぜかカズマさん本人もお出ましになりましたが。映像化での最大の難点は、ヒロインが「鬼嫁」のイメージに合うかどうかですね。さて、いったい誰が「鬼嫁」になるのか?ところがほとんど意表をついたキャスティング!これには一本とられたという感じ、参りました。なにはともあれ、観月ありさだったら、出来過ぎ、まあ、いいか。ということで、火曜日夜から始まります。僕がテレビの番組宣伝お先棒を担いだからって、どうなるものでもありませんが。


テレビ版「鬼嫁日記」HPはここ

過去の関連記事はここ


「実録嫁日記・仕打ちに耐える夫の悲鳴」
著者:カズマ
発行者:藤田晋
発行所:(株)アメーバブックス
2005年1月31日第1版第1刷発行

年に一度の、八幡神社の大祭!

T八幡神社社殿
T八幡神社舞台

「そろそろ秋祭りの季節だね」と家人に言うと、「T八幡神社は10月第2日曜日、K八幡神社は10月第3日曜日と決まっています」と、言われてしまいました。家の近所には「八幡神社」がふたつあります。「大祭」は巧い具合にずらしてあるんですね。注意して街を歩くと、至る所に「大祭」のポスターが張ってありました。そう言えば、昨日、「mixi(ミクシィ)」の参加している「コミュニティ」に、量販店の入り口に飾ってあるT町会のお神輿の画像が載っていました。T八幡神社の位置を地図で見ると、今は暗渠になっていますが、流れていた川の崖線沿いに、南向きに建っているようです。平安時代の終りごろ、源義家が父・頼義とともに朝廷の命を受けて陸奥の安倍氏征討に向かう途中、この地を通って八幡神社に武運を祈ったとか、言い伝えられているようです。


射的に興じる男の子
金魚すくいをする女の子
薬研堀のおじさん

久しぶりに子どもの頃に返った気分で、T八幡神社へ行ってきました。こちらの方がK八幡より家からはちょっと遠いかな?今日は朝から午後までぐずついた天気でしたので、歩行者天国になる通りに繰り出した御輿は見ませんでしたが、夜、ライトアップされた社殿にお参りしてきました。社殿横の舞台では、歌謡ショーが始まるようで、たくさんの人が待っていました。参道から大きな通りまでは、たくさんの露店が並んでいました。昔から同じようにある露店から、時代に合わせて新しいものを売る露店まで、いろいろでした。射的金魚すくいは、いつの時代も子ども心を高揚させるものです。「薬研堀」のおじさんはダントツで風格がありました。特になにを買うということではなく、冷やかして歩くだけでも楽しいひとときでした。

子ども御輿
いつもは静かなT八幡神社

フンデルトワッサーの建築

不思議の国のとりで


不思議なデザインの建物はドイツのマグデブルクに建設中の「マグデブルクの緑のとりで」。オーストリアの芸術家で建築家でもあるフリーデンスライヒ・フンデルトワッサー氏の晩年の作品の一つ。(AFP=時事:9月27日) 

久々にフンデルトワッサーの話題です。

フリーデンスライヒ・フンデルトワッサー

フンデルトワッサーは、1928年ウィーン生まれグスタフ・クリムトエゴン・シーレに続くウィーン出身の芸術家として有名です。国立美術アカデミーに学び、アンフォルメル芸術の影響を受けます。53年頃から渦巻きや曲線激しい色彩を特徴とする幻想的な絵画を制作。現代文明を批判するとともに自然との共生の必要を訴え、70年代以降は建築と環境問題にも実践的に取り組みました。心臓発作で亡くなり、71年の生涯でした。


左はゴミ処理場、 右は汚泥処理場

大阪市環境事業局舞洲工場

大阪市都市環境局舞洲スラッジセンター

日本でフンデルトワッサーが関わった建築の仕事はふたつ。ひとつは、2001年4月に完成した、大阪にある地上7階地下2階のゴミ焼却及び粗大ゴミ処理工場、「大阪市環境事業局舞洲工場」です。最新の排ガス処理設備を備えるなどして、焼却時の熱エネルギーを蒸気と電気に変え、工場と地域で利用しているそうです。もうひつつは、2004年3月に完成した地上6階地下1階の下水汚泥集中処理センターの「大阪市環境事業局舞洲スラッジセンター」です。市内の下水処理場を地下パイプで結び集中処理する施設です。処理後の汚泥「溶融スラグ」は、建築資材として再利用。フンデルトヴァッサーが、ウイーンのゴミ焼却工場をデザインしていたことから、大阪市がフンデルトヴァサーに依頼し、実現した建築です。工事費がかかり過ぎたということで、批判されてもいるようですが、このふたつの建築、一目見て今までのゴミ処理施設とは違った、楽しく夢のある外観です。 残念ながら、僕はまだ見ていませんが。

フンデルトワッサーハウス、竣工時と現在


フンデルトワッサーの最初の建築の仕事は、当時は「ウィーンの公営住宅」と呼ばれていましたが、最近は「フンデルトワッサー・ハウス」と呼ばれているものです。重厚な建築の多いウィーンの街中に、突如現れたカラフルな建築、これにはウィーンの人も驚いたことでしょう。僕がウィーンへ行ったのは、バルセロナオリンピックの前の年、この建築ができて間もない1991年頃だったと思います。予定になかったのですが、偶然、この「公営住宅」を見ることができました。ウィーンといえば、シェーンブルグ宮殿は別格として、「ウィーン郵便貯金局」を始めオットー・ヴァーグナーの数々の建築、オルブリッヒが設計してクリムトが外装に関わった「ゼセッション館」等々、近代建築のお手本として見るものがたくさんあります。その頃「フンデルトワッサー・ハウス」は、日本ではあまり知られてなく、まだ評価が定まっていない時期でした。今では、カラフルな「フンデルトワッサー・ハウス」は、今はウィーンの観光名所となっているようです。


最近の建築作品をふたつ、紹介しておきましょう。どちらも大規模で、自然との共生がいかんなく発揮されている素晴らしい建築です。是非見ておきたい建築のひとつです。

ブルーマウ温泉保養村

ダルムシュットのウッドスパイラル(模型)

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紅葉 栗駒山で見ごろ 山肌を鮮やかに染める

色鮮やかな栗駒山の紅葉を楽しむ登山客

宮城、岩手、秋田の3県にまたがる栗駒山(1627メートル)の山頂付近で、紅葉が見ごろを迎えた。ドウダンやナナカマド、ウルシなどが山肌を鮮やかに染め、登山者は写真を撮りながら、秋の一日を楽しんでいる。中腹の宿泊所「くりこま荘」支配人、菅原次男さん(64)は「今年は台風の影響や霜の被害もなかったので、例年通りきれいな紅葉が楽しめる」と話している。山頂付近の見ごろは10日前後まで。来週末には標高約1100メートルの「いわかがみ平周辺まで色づくという。
毎日新聞:10月4日

「10月末の土曜日、日曜日に、長野県の南のはし、標高1000メートルの下伊那郡上村『天空の里』へ行きます。上村はさだまさしが『天空の村に月が降る』という歌をつくっていますが、その場所です。参加希望の方はお申し込みください。」というお誘いのメールが届いたばかりです。長野県も紅葉がちょうどいい頃、僕も行きたいんですけど、その日は用事があり、残念ながら行けません。


実は昨年、同じ仲間と4月末の連休を利用して栗駒高原鳴子温泉等へ行ってきました。今回は、思い出の「栗駒ツアー」を記事にしてみます。現地で西口親雄先生の講義が受けられる、東北大学の遊佐文博氏の案内で、東北大学の演習林を案内してもらえる、という二大特典付きです。これは万障繰り合わせ、是が非でも行かなくちゃ、ということで、はるばる東京から車で参加しました。



東北自動車道を一路古川まで、そこから47号線を鳴子町方面へ約30km、宮城県の北西部東鳴子温泉郷の手前に東北大学の演習林があります。正式には「東北大学農学部付属農場」といいます。面積は約2000ha、標高は100mから620mの範囲にあり、標高差は500mを越えます。高標高部分と低標高部分の平坦地は牧場や田畑に利用され、中間標高部分の急傾斜地は森林となっています。植生はコナラ型、ミズナラ型、ハンノキ、ハルニレ型に区分され、天然分布する樹種は51科93属139種25変種落葉広葉樹主体の二次林が57%針葉樹が43%です。


朝9時に東北大学の演習林に行くと、遊佐さんが待ちかまえていて、さっそく全員、椎茸狩りにかり出されました。超良質の椎茸なので、ほとんどが仙台の東北大学生協で売られているようです。その後、四駆を連ねて頂上付近へ、四方見渡せる山の背で昼食を食べました。ほとんど「サウンド・オブ・ミュージック」の世界です。栗駒山も目の前に見えます。5月の連休明けから約半年間の牛の放牧が始まるそうです。



午後からは山歩き、キクザキイチリンソウやユリワサビ、カタクリの群落を見ながら一旦下って沢に、清流にしか棲まないヤマメを初めて見ました。そこから逆に沢を登り、水が染み出る川の源流まで歩きました。普段から運動をしていないので、汗はびっしょりで身体はへとへとに。自称「シティボーイ」の僕ですから、この山歩きは難行苦行、けっこう辛かった!


松原山荘に宿を取り、まずは温泉に入って汗を流しました。夕食を共にしながら約2時間、西口先生の講義を受けました。次の日は朝6時に山荘を出発、鳴子スキー場の横から芭蕉が歩いたという「奥の細道」を、西口先生の解説付きで約3時間、朝の山歩きです。若葉が出始めたコナラ、アカシデ、イタヤカエデ、ヤマハンノキ、クロモジ、ヤマウルシ、一つ一つ丁寧に説明をして下さいました。帰りには松原山荘特製の飲料温泉のペットボトル詰めをお土産に。


「ブナの森を楽しむ」岩波新書
著者:西口親雄 発行:1996年4月
発行所:岩波書店 価格: 819円(税込)
ブナの森に入ってみよう。ヤマハンノキの花穂の赤、ブナの芽吹きの淡緑、ウリハダカエデの紅葉の浅赤、またクロツグミやノジコのさえずり、キツツキのドラミングなど、四季を通じて色も音も豊かな世界だ。木・草・菌類・獣・昆虫と生命に満ちあふれる森の構造と生態系を知れば、森がいっそう身近で楽しいものになってくる。

藤田宜永の「愛の領分」を読んだ!


第125回直木賞受賞作の藤田宜永の「愛の領分」、半年前にブックオフで購入。長い間本棚の中に眠っていましたが、本にも「端境期」のようなものがあるのか、数ある本の間をぬって読み終えました。藤田宜永の「愛の領分」、やはり直木賞受賞作ということと同時に、奥さんが同じ直木賞作家・小池真理子である、ということに話がいってしまいます。僕の場合、そういうことでもなければ、読むことのなかった作家の一人です。小池真理子の受賞が1995年の第114回、藤田宜永の受賞が2001年の125回、遅れること約5年ですね。なぜかその苦労を思うと「苦節5年」という表現が、妙に当てはまります。


藤田の受賞の時、小池真理子の方が、異常にはしゃいでインタビューに答えていたのが、印象に残っています。そうは言っても、藤田も早くから注目を浴びていたようで、95年には「鋼鉄の騎士」で日本推理作家協会賞を受賞しています。僕は推理小説はほとんど読みませんので知りませんでしたが。とはいえ、小池真理子の小説も「」しか読んだことがありません。「欲望」も買ってはあるんですが、これも読んでいない。そうこうしているうちに、「欲望」の「映画化」が進んでいるようで、そろそろ読まないとと思っていますが。


藤田宜永の「愛の領分」、作家の渡辺淳一が直木賞の受賞に際して「文章につやが増してきた。久々に正統な恋愛小説家が現れた」と評したと言われています。直木賞の選考基準を取り上げるつもりはありませんが、この本を読んで「うーん、そうかな?」という疑問が大いにあります。それはともかく、本の帯には派手にこう書いてあります。「直木賞受賞作。不倫でもないのに秘密の匂いがする。愛を信じられない男と女。それでも出会ってしまった彼らの運命。すべてをかなぐり捨てた4人がゆきつく果ては。待望の恋愛長篇。」どうも、これも「愛の領分」を言い当てていないような気がします。



こちらの方が、やや近いような気がします。
常に光の当たる場所を歩いてきたかに見える一組の夫婦。どこか暗い影をひきずる一組の男女。男は妻に先立たれ、女は不倫相手の自殺を経験していた。混沌としたこの世で、孤独な日々を送る男と女が偶然出会う。25年ぶりの再会が、お互いのあやうい過去を明らかにしていく。許すこと、許せないこと。忘れること、忘れられないこと。登場人物たちの苦悩と官能が、軽井沢の美しい自然を背景に繰り広げられる。大人の愛情模様を描いた待望の恋愛長編


仕立て屋の宮武淳蔵は28年ぶりに高瀬昌平と再会する。昌平は淳蔵を捜し、訪ねてきた。淳蔵の父親の旅館を昌平の父親が買い叩いた。淳蔵は買い戻すつもりだったが、うまくはいかなかった。そんな父親同士の関係のため、昌平との関係も悪くなりそうなものだったが、淳蔵は昌平を悪くは思えず、二人はは若いころ一緒に遊び歩いた仲だった。昌平の妻・美保子重症筋無力症にかかっており、美保子が淳蔵に会いたがっているから、是非家にきてほしいという。淳蔵は複雑な気分で塩田平に向かう。駅に着くと、偶然馬渕太一と再会。太一は妻・千代子と旅館で働いていた。淳蔵は太一の娘佳世と出会う。淳蔵は佳世に惹かれる。東京に戻った淳蔵に昌平から電話が入る。スーツを一着作ってほしいという。それから淳蔵は塩田平にちょくちょく行くようになる。淳蔵の美保子へのかつての想い、そして佳世との恋美保子の淳蔵への執着。昌平の突然の来訪の意味は?


仕立屋の淳蔵を中心に、昔の遊び友達の昌平、その妻で昔淳蔵と関係のあった美保子、さらに淳蔵の父が経営していた旅館で働いていた太一とその娘佳世、淳蔵の息子信也が主な登場人物です。主人公の宮武淳蔵、陰気くさい男です。煮え切らない男です。はっきりしない男です。昌平に対しても、美保子に対しても、そして妻や息子に対しても。「諦念」というといいように聞こえますが、そうは思えません。それを「仕立屋」という職業に表そうとしているようですが、キャバレーに勤めていた男が、修行の厳しい仕立屋に簡単になってしまうのは、あまりにも都合がよすぎます。


藤田宜永と小池真理子

全体の筋からはなくてもよかったのではと思わせる、男やもめの一人息子との葛藤亡くなった妻を描くために必要だったのかも知れませんが、これも巧く表現できてるようには思えません。特にボランティアに対する親子の考え方の差、あまりにも淳蔵の考え方は古すぎます。そして佳世の気持ちがどうなのか、淳蔵とのあまり官能的とは思えないベッドシーンが何度かあるにしても、お互いに結婚はしない、という考え方がどうしても見えてきません。結局、この小説は、自分勝手な我が儘の昌平と美保子に、淳蔵が引き回されるということだけに終わっています。

美保子をめぐる争いでは勝者の昌平が言う。「どんなに立派なものでも、着物に合わない帯がある。帯に合わない着物がある。お前と美保子は、ちぐはぐな帯と着物だった。そんなふらりを結びつかせてしまったのは、俺だけど、やっぱり、愛にも領分があるって思うんだ」と。十分に齢を重ねた男が、やはり愛にも領分があったのだと気付くという、お粗末な結論に至ります。え~っ、これが直木賞受賞作?、という疑問が、沸々と沸き上がってきました。


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