三太・ケンチク・日記 -41ページ目

羽根木プレーパーク25年

そうか、羽根木プレーパークが出来てからもう25年も経ったのか!
焚き火をしながら焼いた「遊ぼうパン 」、細竹の先にパンの生地を巻き付けてじっくり焼く、ただそれだけですが、アツアツのパンにパターをたっぷり塗って食べるのが、最高に美味しい!行政が管理する公園はアレしちゃいけない、コレしちゃいけない、と、禁止事項だらけ。でもここは、木の上に小屋をつくる、火を焚いてイモを焼く、ナイフを使って木を削る、等々、なにをして遊んでもいい子供の天国です。

16日の朝日新聞の記事に「母親支援に まちづくりに 冒険遊び場25年 役割広がる」という記事が載っていました。「穴を掘っても、泥まみれになっても、火を扱ってもいい。子供たちが自分の責任で自由に遊べる、欧州生まれの『冒険遊び場』が日本に誕生して25年、『都会の子に遊び場を』と始まった事業は、今では全国180カ所に広がり、子育て支援地域再生の場としても注目されている。」とあります。

冒険遊び場アドベンチャー・プレー・グラウンド)」とは、禁止事項をなくし、自分の責任で自由に遊ぶが合い言葉。43年にデンマークで原型となる「エンドラップ廃材遊び場」が誕生し、イギリスやドイツなどヨーロッパに広がりました。

イギリスのアレン郷婦人が冒険遊び場の理念と実践例について書いた「都市の遊び場 」を翻訳出版したのを機に、大村虔一璋子 夫妻が自分たちの住む世田谷の経堂で75年に「遊ぼう会」をつくり、「冒険遊び場」の活動を始めました。烏山川を暗渠化した空地での「経堂冒険遊び場」はふた夏だけでしたが、その次の年、77年7月から78年9月までの15ヶ月間、桜丘区民施設の建設地にその場所を借りて、廃材小屋を建てた「桜丘冒険遊び場」として活動しました。そして79年の「国際児童年記念事業」のひとつとして羽根木公園の一画に「羽根木プレーパーク 」が誕生、現在までその活動は続いています。

プレーパークは公園での自由な遊びをめざして区と地域の人たちと学生ボランティアとの協力で運営されています。ここの遊具は区の公園課で作ったものではありません。子どもの欲求に応じてボランティアを中心とする人たちの手で作られていますので安全点検にはみんなの協力が必要です。気がついた事はプレイリーダーに知らせて下さい。子どもが公園で自由に遊ぶためには「事故は自分の責任」という考えが根本です。そうしないと禁止事項ばかりが多くなり楽しい遊びができません。このプレーパークのモットーは「自分の責任で自由に遊ぶ」ことです。みんなの協力で楽しい遊び場をつくりましょう!、と書かれた手づくりの看板(上の写真)が「羽根木プレーパーク 」にかかっています。

東京都世田谷区には常設のプレーパーク は現在4ヶ所あります。1979年、区立羽根木公園のなかに「羽根木プレーパーク」が誕生し、その後、世田谷公園のなかに「世田谷プレーパーク」、駒沢地区に「駒沢はらっぱプレーパーク」、そして烏山地区に4つ目の「烏山プレーパーク」ができました。この活動は全国に広がっています。

プレーパーク」活動に参加したお母さん方がその後それぞれ地域に戻り、「まちづくり」の担い手として大きく成長していくことになるわけです。19~21日は神戸市と西宮市で、自治体との協働をテーマに「冒険遊び場全国研究集会 」が開かれるそうです。

フィレンツェ-芸術都市の誕生展

上野公園の木々も僅かですが色づいて来た頃を見計らって、東京都美術館で開催している「フィレンツェ-芸術都市の誕生展」へ行って来ました。副題が「ミケランジェロ、ボッティチェッリ、ポッライウオーロ 芸術を発明した街。」となっています。

目玉は、と言ってもたくさんあるのですが、強いて挙げればこの二つです。
ひとつは、ポスターなどにある婦人の横顔、ポッライウオーロの「若き女性の肖像」、これはウフィッツィ美術館にあるものです。宝石の髪飾りといい、首飾りといい、金襴織りの柄といい、よくぞここまで描いたとガラスに顔を付けて見ちゃいました。もうひとつは、ボッティチェッリの「婦人の肖像」、ジュリアーノ・デ・メジチの想いの人“美しきシモネッタ”とも言われているもので、これはピッティ美術館にあるものです。この二つが並んで展示してあるところが凄い、日本ならではの展覧会です!

でも実は、目玉はもうひとつあるんですね。ミケランジェロの作品だと後年になって分かったという、シナノキ材に彩色された「磔刑のキリスト像」。たった41.3cm×39.7cmの小さなものですが、風格は堂々として、なおかつ気品があります。キリストの容貌は、ローマのサンピエトロ寺院にあるピエタの原型とも言われています。展示の仕方も周りを黒い布で回して照明を落としてあり、ガラスケースの四周回れるようになっていたのもよかったですね。この作品が展示してあるのは、唯一吹き抜けになっているところで、地下1階から1階へ上る階段のあるところです。

展示会場は、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチョから入り、都市、絵画、彫刻、金工、建築、織物、医学・科学と様々な展示が盛り沢山。やはり人気が高いのか、会場はけっこう混んでました。

彫刻では、メドゥーサの首を持っている「ペルセウスのひな型」、白と赤の二種類の大理石でできている「瀕死のアレクサンドロス」の二つ、僕は興味を引きました。宝飾品では、小さいんですが「角笛にのった猿のペンダント」や「セイレンのペンダント」は、ガラスのケースを囲んで皆さん見てましたね。他には建築の木製模型、「パラッツォ・ストロッツィ」と「サン・マルコ聖堂」が出てました。

なにしろ、フィレンツェはルネサンス芸術の発祥の地、久しぶりに熱を入れてしっかりと見ちゃいました。ミュージアム・ショップは当然の如く混雑していました。そしてやっぱり、フィレンツェものの本が売ってましたよ。JTBの「イタリア・ルネサンスの旅」と、とんぼの本の「フィレンツェ美術散歩」。フィレンツェ・ルネサンスの入門編としてはこの二冊がお薦めかも?

ここで苦情をひとつ、いつ頃からか、美術館で音声ガイドが使われるようになったのは?展示品の横に書いてある作品解説より、音声ガイドの案内の番号の方が大きいので、それが作品の雰囲気を邪魔している。それって逆だと思う。作品の解説はそれなりに控えめに書いてある、逆にもっと大きくして読みやすくしてもいいかも?そして音声ガイドをしている人は、音声に従っているので、他の見ている人と歩みというか流れが違うため、作品の前に止まっていたりして、他の人の邪魔になる。というようなことを感じました。僕は今まで一度も音声ガイドのお世話になったことはありませんので。

南青山のみゆき通り

みゆき通り」と言えば、日比谷公園と築地の新橋演舞場とを結ぶ道が有名ですね。その名前の由来は、明治天皇が宮城より海軍兵学校に御行幸されるときに通ったことから来ていると言われています。泰明小学校から、外堀通り沿いには旭屋書店が東芝ビルの1階にあり、道路を渡ると紳士服の英国屋があり、ジュン・アシダがあり、かつては文芸春秋があった通りですが、今は「文春画廊」がありますね。松坂屋の一角にはグッチがあり、最近ではシャネルも最近出来たのかな?そうです、汚い麻袋を持って歩く「みゆき族」発祥の地でした。「みゆき族」といっても、ほとんどの人は知らないかも?

実は、表参道の反対方向、プラダのある前の通りも「みゆき通り」と言うんですね。ということで、表参道ばかりでなく、こちら側の通りもちょっと言っておかないと片手落ちなので。

表参道交差点から根津美術館北門までの通りは「みゆき通り」と名付けられていますが、あまりその名を知る人はいないと思います。名前の由来はこちらも銀座と同じく、たぶん、天皇が明治神宮へ御行幸されるということで名付けられたのでしょう。そういえば桂離宮には「御幸門」がありますね。ちなみに「みゆき通り」から名を付けた「パレスミユキ」という古いマンションが、フロムファーストのひとつ手前にあります。

あの通りを大きく変えたのは、1975年に建てられた山下和正設計の商業施設「フロムファーストビル」でしょう。その頃までは商業施設は受賞の対象ではなかったのですが、翌年、日本建築学会賞を受賞した作品です。日建設計を退社し事務所を設立して間もない山下和正が、建築プロデューサーという聞きなれない肩書きを持つ浜野安宏浜野商品研究所と組んで成功したものですね。1階にはイッセイ・ミヤケが入居していました。角のガラス張りのところには、フランス料理店「ブラッセリーフィガロ」が入っています。

フロムファーストの手前には、高級洋菓子店ヨックモック本社ビル」があります。これは現代計画研究所の作品。道路沿いはブルーのボーダータイル張りで、お茶が飲める中庭側は一転して白いタイルの建物です。
フロムファーストの向こう側には、安藤忠雄の作品、コンクリート打ち放しの、住居やスポーツ施設も含む「コレッツィオーネ」があります。

そして、ヨックモックの手前に忽然とあらわれたプラダブティック青山店。メッシュ状の構造の外側に菱形のガラスがはまっています。幅3.2m高さ2.0mの菱形モジュールが外壁であり、しかも構造体、室内には柱が1本もない。今までの建築の概念とは大きく異なっています。というか、ある種、別物って感じです。建物回りの地面が妙に傾斜していることもあって身体が傾いてきます。メインの入り口がなかなか見つからないのがちょっと困りもの。

プラダの建物はジャック・ヘルツォークとピエール・ド・ムーロンの設計、構造や技術的なサポートは竹中工務店です。彼らは、ロンドン・テートギャラリーの新館をコンペで取り、テムズ河畔の50年代半ばに建設された火力発電所を現代美術館に改造しています。いわゆる「テート・モダン」ですね。

プラダの敷地は太陽神戸銀行の研修宿泊所のようなものが建っていました。その先の敷地も、古い木造2階建ての労働組合関係の建物がありましたが解体されて、現在新しく工事中です。南青山のみゆき通りは、ファッション・ストリートとして、これからもどんどん変化していくでしょう。
でも、根津美術館の一角だけは、今でもまだ30年ほど前の雰囲気が残っています。

表参道のけやき並木

昨日は日曜日でしたが、渋谷で知人との打ち合わせに付き合い、その後また別の知人と渋谷で待ち合わせ。その間、1時間ほど時間があったので、ちょっと夜景でも見ながらそぞろ歩いてみるか、と、急に思い立ち表参道へ出かけてみました。出かけるといっても地下鉄に乗ればたったの一駅、歩いても僅かな距離。天気のいい日だったら宮益坂 を登り246に出て青山学院大学 の前を通り表参道 まで、ぶらぶら散歩がてら歩くこともしばしばのコース。けやき並木も色づいてきたことだし、って、6時から7時の間だったからもう外は真っ暗。

まあ、建物の夜景でも見てみっか、というのが目的といえば目的でした。たまたま高性能(?)のデジカメを持っていたので、これで一丁、夜景でもものにすっか、という下心!このデジカメ、会議風景とか夜景うまく写らない、っていうか、やたらにブレちゃう。それはカメラのせいか、はたまたウデのせいか?まあ、デジカメだから、何枚も撮して、そん中から何枚か選べばいいか、って感じでいつも撮しているのですが・・・

さて、目的の建物は、ご存じ、プラダルイ・ヴィトンクリスチャン・ディオール 、ついでにベネトン でした。もちろん僕にはまったく縁もゆかりもない、世界のファッションリーダーの、しかもそこの日本での顔である店舗です。昼間はもう何度も見ているものばかりなんですが、確かに見るだけ、ですが、夜になると表情は一変、さすがは原宿、表参道、なかなか華やかなものでした。最先端情報発信地として国際的に注目を浴びる街となりましたね。昭和40年代の初めまではのんびりした街でした。そういえば明治通りとの交差点、今はGAP になっているところにあったボロビルの1階に、当時としてはオシャレな「クレドール」という喫茶店がありましたがよく行きました。森ビル系列のラフォーレ原宿 の所には元は教会がありました。

そうそう、原宿という地名は地図にはないんですよね、駅名は残ってますけど。みんな神宮前になっちゃった。表参道はもちろん、1920年の明治神宮 鎮座にあわせて開通したという表参道。そうそう、明治神宮って鬱蒼とした森って感じですが、あれって実は人工林 なんです。表参道は以前、ケヤキにイルミネーションを付けて原宿シャンゼリーゼまつり(?)のようなことを商店街 がやっていましたが、付近の住民からの反対、もしかしてパリの反対(?)でそれもなくなりました。そういえば表参道の駅名は、前は神宮前と言いました。

表参道といえば、最近では同潤会青山アパートの建て替え問題。同潤会は大正14年の関東大震災の被災者のための住宅復興のために発足した最初の公的な住宅供給機関です。同潤会解散後は住宅営団、住宅公団と引き継がれ、住宅・都市整備公団、そして現在の都市基盤整備公団になりました。青山アパートはかなり長い間、権利の調整や反対運動で計画が延びていましたが、なぜか事業主が森ビル安藤忠雄の設計で、いま工事を行っていますね。代官山 にもありましたが、東急によりきれいな街によみがえっています。

表参道のけやき並木から、伊藤病院の角をキラー通りの方へ行く抜け道にあるとんかつ屋の「まい泉 」、よく行くんですよ。「井泉」といってた頃からですから、だいぶ前からですが。鹿児島直送の黒豚がうりですね、「箸で切れるとんかつ」がキャッチフレーズ。とんかつとおなじくらい有名なのが「カツサンド」。デパートの食品売り場でも売っています。「まい泉」では、お店の玄関を入った横にあるカウンター席ではなく、できれば順番待ちをしてでも、銭湯を改造したテーブル席で食べたいものです。なにしろ銭湯の脱衣場ですから天井が高く広々としていて気持ちがいい。

大図解・九龍城

そうか、1997年だから、香港返還がなされてからもう7年も経つんですね。あの時は、メディアも中継などを入れて大騒ぎしましたよね。その頃からやたらに香港旅行の費用が高くなってしまったような気がします。僕も香港へは何度か行きましたけど、返還後はなぜか一度も行ってません。最近は韓国ブームですけど、返還以前は近場では、台湾、韓国を差し置いて、香港が断然トップでした。香港から海路、マカオまで簡単に行けるのがまたいいんですよね!なんとなくヨーロッパの香りがして。もちろん、香港はイギリスマカオはポルトガルが支配していたわけですから。中国と国境を接しているという、危険か香りもあったりして。

大図解 九龍城」という本があります。
著者は「九龍城探検隊」となっていますが、これは早稲田を卒業した建築設計や都市計画に携わる「ダムダングループ」のメンバーを中心に結成されたものです。団長というか言いだしっぺは、ダムダンの鈴木隆行さん。1993年2月、九龍城の取り壊し寸前に実測調査をした結果を、絵本という形式で纏めたものです。

この本は、数奇な運命をたどった九龍城という場所と人との物語だ、と彼らは言います。それが表現されているのは、九龍城の生活がぎっしりと詰め込まれた「生活復元パノラマ」です。なにしろこの図は圧巻です。よくぞここまで書き込んだ、という感があります。これはいわゆる断面図ですが、これを見ると九龍城は聖も俗も抱え込んだ「なんでもあり」の濃密な都市を形成していたことがうかがえます。

変形大判で、香港返還の年、1997年に岩波書店から出版されています。しばらく絶版になっていたようですが、最近、部数限定での復刻がなされたようです。もちろん、僕はオリジナルのものを持っています。これは高値を呼んでいいるようですが。

九龍城は中国への返還スケジュールの中で1993年から解体され、1994年にその跡地は中国式の公園になっていますが、今なおオーラを放ち続けています。約2.6ヘクタールの敷地の上に、10数階建ての細長いビルが300棟以上密集し、70年代後半から80年代前半の最盛期には、5万人が住んでいたというから凄いです。

確かに歴史を見直すと、香港は激動の歴史に翻弄されていたのがよく分かります。1841年アヘン戦争、1943年イギリスは香港領有を正式に宣言。1997年の香港返還まで、その間、1912年中華民国建国、1941年日本軍香港攻略を開始、1945年日本ポツダム宣言を受諾して降伏、1949年中華人民共和国樹立、と続くわけですから。やっと1984年に香港問題に関する英中共同宣言本調印がなされました。

僕も香港返還の前に何度か見に行きましたが、とはいえ、いつも外側からウロウロするばかりでしたが。これは凄いです、超過密です。たぶん、人口密度で言ったら、断然トップ、世界最高なんじゃないでしょうか?でも、結局、僕は中へは入れませんでした。なにしろありとあらゆる犯罪の魔窟、その頃は中へ入ると絶対に出て来れない、と言われていましたから。一緒に行った友人は、平気の平左で中を見てきたようで、その時ほど彼の図太い神経を羨ましく思ったことはありません。

“赤目”を体感せずして日本映画を語る勿れ

まったく土地勘がないのですが、
近鉄橿原線と交わるところの「大和八木」という駅から、近鉄大阪線で三重県方面へ行ったところに「赤目口」という駅があるそうです。室生寺からちょっと先の名張市に入ったところです。そこからバスで入ったところの渓谷に「赤目四十八滝 」があるそうです。関西の人にはおなじみの行楽地のようです。

突然ですが「赤目四十八瀧心中未遂 」という映画の話です。
昨年から今年にかけての日本の映画賞を総なめにした映画です。「毎日映画コンクール日本映画大賞 」や「ブルーリボン賞作品賞 」、そして主演の寺島しのぶは主演女優賞7冠とも10冠とも言われており、トータルで映画賞は20冠以上、“赤目”圧勝、話題の映画です。

寺島しのぶの映画はこの「赤目」がデビュー作なんですが、実は2作目の「ヴァイブレータ 」 という映画が先に公開されて、僕はまず、去年の暮れにそれを先に見ました。「ヴァイブレータ 」は赤坂真理の小説です。それについて書いたことがあるので、載せておきます。

知的な職業に就く30代の女性が、身体と意識の分裂に悩み、その危機を乗り越えようともがいている姿が、果てしなく続くモノローグや、トラックの喧噪とともに、描き出されている。長距離トラックの運転手に出会い、北へ向かって長距離を走る。しばらくの間、至福の時間を過ごす。ただそれだけ・・・。それは確かに一時的な救いではあるが、そこには欺瞞が見られない。確かに、永遠の救いなんて、あるわけがない!

そんなことで映画の「ヴァイブレータ」も注目していたのですが、そこでまず寺島しのぶに出会い、これはこれで惚れ込んじゃいました。そして今年は「赤目四十八瀧心中未遂」でますます惚れ込んでしまいました。「赤目」はまず、今年の初めに下北沢のローカルな映画館で見ましたが、お客さんはたったの15人という寂しいものでした。

それから車谷長吉の原作本 を本屋で探しまくったのですが、なかなか手に入らず、偶然にも古本屋で単行本を見つけました。119回の直木賞受賞作です。その後、文庫本 もすぐに出ましたので手に入りやすくなりました。

そして、実は先日も「赤目四十八瀧心中未遂」見に行ってきました。同じ映画をわずかの間に映画館で二回も見るなんて、めったにあることではありません。小説を読んでからですから、ますます細かいところを見るようになりました。

実は、近所に「赤目製作所」という看板のかかった小さなお店があり、初めはなんのお店だろうとずっと思っていたんですが、その後また行ってみたら「赤目」が売れ出したからか映画の垂れ幕や看板が立てかけてあり、映画の大きなポスターも張ってあり、一目瞭然、様変わりしていました。そこではいつも青年が4~5人位いて、お揃いのTシャツを着てなにか作業をしています。

「赤目製作所」は、たぶん、製作者の荒戸源次郎監督 の事務所ではないかと思いますが。そのお店には、店構えを写真に撮りに行ったり、ポスターを買いに行ったり、何度か行きました。僕が何度も買いに来てくれたというので、店にいた若者が2階にかけ登り、なにか持ってきてくれました。なんとそれは特製の10枚入りポストカード。貰っちゃいました!って、買ったとしても大した値段ではないんですが・・・

“赤目”を体感せずして日本映画を語る勿れ!、ということで、僕の中では今年の日本映画は「赤目四十八瀧心中未遂 」で決まりです。

チャリティーコンサートから様々なことなど

仕事をしながら、FMラジオ、Jウェーブを聴いていたら、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は20日午前10時半から東京・赤坂のサントリーホールで開くリハーサルを有料で公開するという。そしてその収益金を日本赤十字社を通じて新潟・中越地震の被災者に全額寄付するそうです。曲はブラームスの交響曲第二番。だそうだけど、僕はどんな曲なのかさっぱりですが、ま、聞けば分かるかも?

ベルリン・フィルのサイモン・ラトル芸術監督は「災害や戦争を前にすると、無力感に襲われるので、何かしたかった」と語ったそうです。チケットは全席指定で5000円。これって、安くない?まあ、リハーサルですから、そんなもんかな。サントリーホールを見る絶好の機会、高いクラシックコンサートはとても行けそうにないですが、もしかしたら行けるかも?見に行きたいな~

サントリーホール前の広場は「カラヤン広場」といいます。もちろんサントリーホールの設計にアドバイスを与えたヘルベルト・フォン・カラヤンの名を取って名付けられたものです。まあ、カラヤン広場といっても世界には、ザルツブルグの馬の水飲み場の前の広場と、ウィーンのオペラ座前と、アークヒルズの三カ所もあるんですけど。テレビ朝日が六本木ヒルズに引っ越す前は、朝のお天気情報はアークヒルズのカラヤン広場からお天気のお姉さんが発信していましたね。六本木ヒルズに引っ越した今は、毛利庭園の池の前からですが。

アークヒルズ」、どうしてその名前になったのか?どこにも書いていないので確かなことは分かりませんが、たぶん再開発計画の時のプロジェクト名「赤坂・霊南坂・計画」、つまり「A.R.K」から来てるんじゃないかと僕は想像していますが。それがいつの間にか正式に「アークヒルズ」になっちゃったのか?名前なんて、けっこう、簡単に付けちゃうのかも?

その再開発のど真ん中に、由緒ある「霊南坂教会」があったんですね。以前の教会は東京駅や日銀本店と同じ設計者、辰野金吾の設計です。山口百恵や郷ひろみなど有名人が結婚式を挙げたことで、何度もメディアに取り上げられていましたが。あっ、僕の知人も一人います。それも再開発で取り壊され、以前建っていたところとは少し移動して、違う場所に建て替えられました。

そうそう、また思い出しましたよ。その再開発区域の中に「谷町」というところがあって、そこにお風呂屋さんがあったんですよ。赤瀬川原平の「超芸術トマソン」という本、ご存じですか?そうです、その本の表紙、煙突の上に登って写真を撮ってる、その煙突が谷町にあったお風呂屋さんの煙突ですよ!撮影は若きカメラマン飯村昭彦君、なにしろ「煙突の拓本」まで採ってきたんだから凄い!これは「馬鹿と紙一重の冒険」と評されていますが。

しかも絵を描かないことで有名な赤瀬川原平画伯はなんと、その煙突を油彩で描いているではないですか!再開発前の霊南坂、谷町の辺りについてはトマソンの中の「ビルに沈む町」に詳細が載っています。谷町の出口の辺りは、確か、箪笥町、といったような?由緒のあるいい町名ですが、もうなくなっちゃったかも?

あれれ、話が大きくずれちゃったかな?

エリック・クラプトンについて思い出すままに

ニュースによるとエリック・クラプトンは来年、ドラムのジンジャー・ベイカーとベースのジャック・ブルースと共に伝説のバンド「クリーム」を再結成、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホール で1週間コンサートを開くということです。そういえば、アルバート・ホール、見に行ったな~、いやいや、前を通りかかっただけですが、ポールの歌っている箇所でアルバート・ホールが出てくるのでちょっと知ってました。

そうそう、話はアッチコッチ飛びますが、ロンドンに夜着いたのですが、その足でホテルに入り遅い夕食をしている時に流れていたのがピンク・フロイドの曲「Money」!あ~、ついにロンドンに来たんだな~、と実感したわけです。そのホテルがハイドパークの前で、その向こうがケンジントン公園、その前にロイヤル・アルバート・ホールがあり、その向こうにバッキンガム宮殿があるというわけです。ハイドパークは1951年に第1回万国博覧会が行われたところ。朝起きて、ホテルの窓から公園を見ると、何匹かのウサギがピョコピョコ歩いていました。

ロイヤル・アルバート公とは、なにを隠そう、ヴィクトリア女王の夫君なんですね。ザクセン・コーブルク公アーネスト一世の次男、つまり、ドイツ人なんですね。いかにもドイツ人らしく、堅い感じの生真面目な学級肌の人物だったようです。万国博覧会の言い出しっぺで、王立委員会の総裁でした。で、万博の収益で建てられたんですね、アルバート・ホールは!まあ、そんなことはこの際どうでもいいことですが。クリームは、'68年にそのアルバート・ホールでファイナル・コンサートを行なっています。

僕が最初にクラプトンのことを知ったのは、ビートルズの2枚組のアルバム「ホワイトアルバム 」ですね。ジョージ・ハリソンの曲「While My Guitar Gently Weeps」で、クラプトンとジョージが掛け合いで演奏しています。泣くようなギターの音色で一躍有名になりました。その前か後か、今となっては定かでありませんが、ジョージのアルバム「オール・シングス・マスト・パス」などに参加しているんですね。奥さんもジョージの元奥さん、パティだったかな?その後、どうなったか、詳しいことは分かりませんが・・・

ですから僕は、「クリーム」時代のクラプトンは、同時代的には知らなかったんです。その後、何枚かのアルバムは手に入れましたが、その中に「White Room」「Sunshine Of Your Love」などのヒット曲が入っていたというわけです。もちろん「いとしのレイラ」も!
僕がクラプトンのことでしっかり印象に残っているのは、ジョージが主催した難民救済のための「バングラデッシュ・コンサート 」ですね。茶色の箱入りのアルバム はもう何回も聴きましたし、映画 ももちろん何回か見ました。ステージの上では、参加者の中では控えめなクラプトン、煙草をくわえながら弾くクラプトンのギターソロ、最高にかっこよかったのを覚えています。

最近はもっぱらスローバラードですね。「Change The World」「Wonderful Tonight」はアコースティックギターの名曲ですね!そうそう「ハスラー2」の主題歌もありますね!
ということで、思い出すままにエリック・クラプトンに関して、僕の知ってることだけですが・・・

トリコロールに燃えて

見てきましたよ~、旧新宿三越の上の方に2フロアー出店したあの愚直な本屋ジュンク堂、老舗紀伊国屋書店本店の目の前です。確かに広いし本の数も多い、ベンチがあってそこで読んでる人もいる。でもなんか図書館のようなせせこましい印象、本棚が立ち上がっていて、店の様子全体を見渡せないからでしょう。通路が狭いから立ち読みしているヤツがいると、そいつの後ろをカニ歩きしなきゃならない。まあ、慣れればそんなもんか、と思うんでしょうが。横の方にコーヒーを飲ませるテーブル、確かにありました。でも、買った本を読むんだったら、そこで読まなくても、と思いましたが。

あっ、見てきましたよ~、とは、実は映画の話。新宿武蔵野館でやっている「トリコロールに燃えて」です。あの13キロ増量して役づくりして臨んだという「モンスター」でアカデミー賞を取った女優、シャーリーズ・セロンの映画です。

この映画、原作があるわけではなく、オリジナル脚本らしい?原題はHead in the Clouds、「雲の中の頭」ってこと?なんでそれが「トリコロールに燃えて」?まったく意味不明ですね。見た感想は、あれもこれも盛り沢山過ぎますよ、この映画は!という感じ。画面の中では、英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、が飛び交います。そして当然、僕らは日本語字幕で読むわけですが!

まあ、貧乏学生が上流階級の娘とケンブリッジ大学で出会う。よくある話です。が、まず、主役3人の性格付けが不十分ですね。タウンゼントとセロンの関係は男と女だからまあいいとして、セロンとクルスの同性愛的な関係が説得力に欠けます。この三角関係は必要なかったんじゃないのかな?ベネロペ・クリスはよくなかった。というか、あまり好きな女優じゃない。と、好みで言っちゃいけないね、自戒。

ロケ地だけでも、カナダのモントリオール、フランスのパリ、イギリスのロンドンケンブリッジサセックスと5都市で行われた。それだけでも凄い!映画自体はそこそこ大作ですが、全体としてはやや薄っぺらな印象は否めないのは、時代背景を軽くなぞっているだけで、深く掘り下げていないことがあるかも?

1930年代、1940年代、パリは歴史に翻弄され、スペインの内乱も起こる。戦争、ナチスやレジスタンス。戦火の中をくぐり抜けて生きていく壮絶さは、残念ながら皆無に近い。ついつい「モンスター」と比較して見てしまいますよ。「戦争映画」じゃないんだから、その辺は深く突っ込まなくても?それにしても、お城は立派だし、街は重厚に出来ているし、毎度のことですが、ヨーロッパの暮らしと文化には圧倒されます。シャーリーズ・セロンとベネロペ・クルスの2人の髪型は8パターン、衣装は45パターンだそうです。

とりあえず、メロドラマ、ラブストーリーとしてだけで見ればいいのでしょう。やはり「世界で最も美しい50人」に選ばれるだけありますよ。シャーリーズ・セロンは綺麗でしたね。古き良き時代のエレガンスなファッションも決まってるし、聞きしにまさる美女、って感じ、まあ、僕はそれを見に行ったんだから、まあ、ヨシとしますか!

今でも4000万人の人が地下住居に!

生きている地下住居 中国の黄土高原に暮らす4000万人 」という本があります。著者は窰洞考察団、東京工業大学の先生や学生が主なメンバーです。

バーナード・ルドフスキーの「建築家なしの建築 」に載っていた、中国地下住居の4枚の写真がこの本のキッカケでした。この写真は、かつてミュンヘン空港長だったディーター・カステル伯爵が、若い頃郵便飛行機から撮影したものだという。どういうルートでその写真がルドフスキーの手に渡ったのかは不明。家がまったく見えないのに、地表から煙が立ち上っている。下は住居、上は田畑。この穴だらけの村が、いったいどこにあるのか、果たして今でもこうした村が残っているのか?

この本、なぜか僕は二冊持ってるんですよ。ひとつは都市住宅・別冊の「集住体モノグラフィティNO2・建築家なしの建築」昭和50年11月1日発行のもので、もう一冊はそれをSD選書に入れた「建築家なしの建築」昭和59年1月25日発行のものです。こちらはこちらで面白いんですが、今はヤオトンの話を。

窰洞(ヤオトン)考察団は、世界の異文化を楽しんでいるうちに、大規模に現存し、住居の根源的な魅力が息づく黄河中流の地下住居集落「窰洞(ヤオトン)」にとりつかれ、中国詣では延べ9回に及んだというネツの入れよう。空撮の特別許可は下りず、やむなく開発した「凧写真」は、これが傑作、超ローテクなシロモノ、がしかし、かなりの成果を上げたのはうなずける。なにしろ、ヤオトンは空から見ないと分からないから。

中国は、東の華北平原、西のチベット高原、南のチンリン山脈、北のゴビ・オルドス砂漠に囲まれた、平均標高1200m、60万平方キロメートルの黄土高原の大地の中に、窰洞は4000年の歴史を経て、現在もそのまま生きています。中国ではこの窰洞を住みかとしている人々が、今日でもなお4000万人いるという。最近はテレビで取り上げられることも時々ありますが、その当時はなんだこれは?って感じでした。

窰洞は、もともと黄土を切り取り、掘って作られた生土の洞穴を居住空間としたもので、主に崖面に横穴を彫り込んだ靠山式(カオサン)式あるいは山懸(ヤマカケ)式と呼ばれる形式と、平坦な大地に矩形の竪穴を掘り下げることによってできた中庭(院子・坑院)の四面の崖に横穴を彫り込んだ下沈(カチン)式と呼ばれるふたつの形式があります。
上の写真は下沈式、わざわざ垂直に彫り込んでその下で生活しています。「建築家なしの建築」に出ていたのはこっちの方。

この本では、中国の伝統民家である窰洞住居と人々の生活の全貌と細部、作り方、しかけ、住まい方、そこでの暮らしぶりを余すことなく紹介されています。