三太・ケンチク・日記 -40ページ目

その秋、私は静かに父の最後を看取った。

普段はほとんど見ることのない、テレビの2時間ドラマを見ました。TBS水曜プレミア、文化庁芸術祭参加作品と銘打つ「無名 」です。番組表には「沢木耕太郎の感動ベストセラー実話ついにドラマ化!死を迎える父に息子が送る珠玉の親子愛・・・誰もが直面する家族の原点」とありました。松本幸四郎が沢木本人となり押さえた演技で好感が持てましたが、年齢がちょっと上過ぎるかな?父親役の大滝秀治がオーバーな演技でやや興ざめ。他に、母親に加藤治子、長姉に長山藍子、次姉に高畑淳子、妻に風吹ジュン、小出版社の社長に小野武彦。そうそう若い頃の父親役に杉本哲太、これは控えめな演技でよかったですね。テレビドラマということで、部分的に小説とは違ったところも数多くあり、まあその辺をどうのこうとといっても始まりませんが。

一日一合の酒と一冊の本があれば、それが最高の贅沢。そんな父が、夏の終わりに脳の出血により入院した。混濁していく意識、肺炎の併発、その後在宅看護に切り替えたのはもう秋も深まる頃だった。秋の静けさの中に消えてゆこうとする父。無数の記憶によって甦らせようとする私。父と過ごした最後の日々・・・。自らの父の死を正面から見据えた、沢木文学の到達点。
と、沢木耕太郎の作品「無名 」という本の帯に書いてあり、もうこれだけで「無名」の内容を余すところなく伝えています。

沢木耕太郎をスポーツライター、ルポライター、ノンフィクション作家と僕は勝手に理解していて、今まで一冊も読んだことはありませんでした。でもなぜか、この「無名」だけは発売と同時に気になっていて、比較的早いうちに読みました。いつ読んだかが正確には覚えていないんですが、本の奥付を見ると2003年9月15日第1刷発行となっているので、去年の11月頃までには読んだのだと思います。読み始める前は、老人問題、在宅看護、家で死ぬことなど、流行のテーマなのかなと、ちょっと誤解もしていました。しかしこの作品は、息子と父親との、子供の頃のやりとりが細かいところまでよく描かれていて、でもさらりと読めるのですが、久しぶりに読み応えのある作品でした。

たまたま去年の11月末に福島県の須賀川へ行く機会があり、そこに「円谷幸吉記念館 」があるというので訪ねました。記念館といってもお兄さんが自邸の一部を解放して、幸吉に関する大量のトロフィーや写真、その他の資料を散逸しないように保存、展示してあるものです。円谷幸吉は、いうまでもなく東京オリンピックのマラソンで活躍しながら、その4年後に自殺した人です。そこで「父上様、母上様、三日とろろ 美味しゅうございました。干し柿、モチも美味しゅうございました。」で始まる、あの有名な遺書 を見せていただきました。それがあったので、その後、古本屋で探して手に入れたのが「長距離ランナーの遺書」の入った文庫本「敗れざる者たち 」でした。「長距離ランナーの遺書」は、雑誌「展望」の昭和51年4月号に掲載されたものです。

ですから僕が読んだ沢木耕太郎の作品は、最新作、自伝的な沢木文学の到達点「無名 」と、スポーツライターとして沢木を確立した出世作「敗れざる者たち 」の二冊ということになります。

京都冷泉家「国宝明月記」リターンマッチ

国宝「明月記」は京都の冷泉家に伝わる藤原定家(1162―1241)の日記です。その全巻を展示してあるということなので、ちょいと出かけてみるかと、上野毛の「五島美術館」へ行った。ところが、いやはやビックリ、案に相違して長蛇の列。あまい、国宝がそんなに簡単に見られるわけがない。とりあえず今日は、すごすごと引き下がってきました。

と、まあ、20日の日にはこのブログにこう書いたのですが、このまま引き下がるのは悔しいので、昨日、行って来ましたよ、リターンマッチに成功、「国宝」を見て来ました。ホント「いわし雲」がすばらしい日でしたが、さてさて画像に五島美術館から見た「いわし雲」が上手く映っているかどうか?お天気もさわやかでしたが、なぜか先日よりは人が少なくて、とはいえ、熱心なファンが多いのか、そこそこの人が来てはいました。

国宝「明月記」は、京都の冷泉家に伝わる藤原定家(1162-1241)の日記である。偉大な歌人であり歌学者・古典学者の定家は、平安から鎌倉へと移る動乱の時代を生きた王朝貴族であった。80年の生涯を、克明に記録した国宝「明月記」全58巻を一挙公開。

定家は、19歳の治承4年(1180)から80歳で没する仁治2年(1241)まで日記を書いていました。そのうち国宝「明月記」(58巻、補写本1巻他)は、建久3年(1192)31歳から天福元年(1233)72歳までのものです。上流貴族の毎日を記録した膨大な日記の内容は、源平の争乱、京都の公家と後の鎌倉幕府となる武家との関係、宮廷の様子、故実・和歌文学等の様々な見聞があり、当時の政治・文化・社会情勢を知る上で第一級の史料であることは誰もが認めるところです。

と、まあ、ここまでチラシを引き写すだけでも大変!

さて、展示室に入ると薄暗く照明が落としてあり、ガラス張りの中に国宝「明月記」の巻物が展示してありました。なにしろ数が多いのには驚きます。虫食いなどは、国宝になるときに補修し直したと聞きました。そうそう、冷泉家から「発見」されたのは、確か昭和55年頃だったとか?達筆かどうかは分かりませんが、なにしろ書き慣れている「」がすばらしい。としか言いようがない。どうも「漢文」らしい?まあ、いくら見ていてもほとんど読めない、内容ももちろん分からない。「明月記」の一部は冷泉家から外部へ散逸しているらしい?他に、西行筆や源家長筆、慈円層状消息など、国宝・重要文化財のオンパレードでしたが。

「明月記」はそんなことで、ただ見たというだけに終わったので、後日、勉強しようと決心した次第。でも、五島美術館の庭園が、聞いてはいましたが、実際歩いてみてすばらしいということを発見。庭園の中の要所要所にある石灯籠六地蔵が、なんともはやすばらしい。ちょっと高低差がきついのが、お年寄りにはどうかなということはありますが。入園料100円ですから、四季折々にまた来て散策したいと思いました。

五島美術館」は、東急王国の総師五島慶太が、建築家吉田五十八に依頼して建てたもの。五島慶太は明治15年に長野県に生まれた。東京帝大法科を出て鉄道院に入り、その後東急の母体である目黒蒲田電鉄を設立。次々に私鉄を買収、合併してその規模を拡大していった。鉄道と不動産だけでなく、バス、デパート、映画と手を広げ東急王国を築いた。その後、文化事業にも力を注ぎ、五島育英会をつくり、学校経営なども熱心に進めた。昭和34年8月、美術館の工事半ばにその完成を見ることなく、五島は77歳の生涯を終えたという。

旧公園資料館・篤志家、いでよ!

東京都は日比谷公園内にある「旧公園資料館」を貸し出す。明治時代の建築でバンガロー風木造2階建て。立地は抜群で、結婚式場やカフェなどにも使えそうだ。条件は有形文化財としての修復と耐震補強工事を借り主が自前で行うこと。6年前の見積もりではざっと8500万円かかるという。都はいったん自ら工事しようとしたが緊縮財政で予算が付かず、建物を閉鎖して5年がすぎた。民間活力を生かすと言いつつも、担当者の胸中は「篤志家、いでよ」といったところ。

朝日新聞の今朝の朝刊「青鉛筆」にこのような小さな記事が載ってました。それで思い出しました、「旧小笠原伯爵邸」のことを。ちょうど今から1年前、若い友人の結婚式に招待されたことで、いつかは見学したいと思っていた「旧小笠原伯爵邸」の内部を見る貴重な機会を得ました。案内状には「私たちは小笠原伯爵邸の料理と空間が気に入り、結婚式場として決めました」と、若い二人らしく書いてありました。

小笠原伯爵邸は1927年(昭和2年)に小笠原家30代当主小笠原長幹(ながよし)伯爵の邸宅として建てられました。江戸時代の九州小倉藩主、そしてあの小笠原流礼法の小笠原家です。敷地は下屋敷跡、現在は約1,000坪ですが、かつては20,000坪あまりあったようです。鉄筋コンクリート造、地下1階地上2階建て、建坪は約330坪、スパニッシュ様式の洋館は、当時の建築事務所を代表する「曾禰中條建築事務所」の設計によるものです。

戦後米軍に接収され、その後東京都の所有になり中央児童相談所として使われてきましたが、建物の老朽化に伴い昭和50年に閉鎖、以後20年に渡って放置され廃墟寸前まで朽ちていました。昭和55年に日本建築学会から強い保存要望が出され、東京都は取り壊しを断念、「事業者が費用を負担して建物を修復し、都民が広く利用できる事業を実施すること」を条件に借り主を公募した結果、インターナショナル青輪(株)が名乗りを上げました。貸付期間は10年間、土地建物共で月5万円という破格の家賃です。しかし修復費用は5億円とも10億円とも言われ、「ブライダルパーティーレストラン」としてリニューアルされ、2002年5月にオープンしました。

スパニッシュ様式の外観は、スペイン瓦や特製タイルの装飾壁面などにより優美な雰囲気を醸し出し、近代の住宅建築を語る上で貴重な特色を残しています。内部は各室の配置により当時の華族の生活のあり方がうかがえ、特に喫煙室の意匠は我が国では珍しいイスラム様式の装飾が施され、大理石モザイクタイル貼りの床、彩色漆喰彫刻の壁などの仕上がりは高く評価されています

建物はいくら素晴らしくても、使われなくなったらおしまいです。1933年(昭和8)年に建てられたアールデコ様式の旧朝香宮邸東京都庭園美術館として使われている事例もあり、歴史的建造物の保護のためにも有効に活用されることはいいことです。同潤会アパートを初め多くの歴史的建造物が「経済の原理」に屈して次々と姿を消していく現在、古き良きものの良さをじっくりと生かして使っていくことも必要なのではないでしょうか。今回の「旧公園資料館」も、「篤志家」が出てくれることを期待してます。(画像は明治の洋館を撮らせたらピカイチの増田彰久さんのものを使わせていただきました。)

私と息子と博士の崇高で哀しい愛

2005年本屋大賞エントリー開始!」という記事が目に入りました。去年できたばかりの「本屋大賞 」、他の賞と大きく違うのは、なんと言ってもこれ「全国書店員が選んだいちばん!売りたい本」というわけなんです。まあ、300人程度の人が選んでいるのですから、やや偏った結果が出ることもあるでしょうが、大出版社の選ぶ賞に食傷気味の人には新鮮な感じがすること請け合いです。昨年度、第1回の「本屋大賞」を受賞したのは、小川洋子の「博士の愛した数式」です。副賞は10万円分の図書カード。しかも、その図書カードで購入した本 をネット上で公開しています。このさわやかさ、この透明性!どこかの経営者も見習って欲しいものです。でも、書店員の人たちが推してくれたということで、まともな本が売れない時代に、30万部を越えるヒット作となったようです。もうこんな季節か、ということで、小川洋子の読んだ本などを。

妊娠カレンダー 」で1991年104回芥川賞を受賞。帯には「姉の妊娠を知った日に妹の抱いたある秘め事」と書いてあります。姉の妊娠を知ってから入院まで、日記風のわずか60数ページの短編。初出は「文学界」平成2年9月号ですから今から10数年前の作品。芥川賞発表時に「文芸春秋」で読んだと思うのですが、実は内容はよく覚えていませんでした。単行本は最近ブックオフで購入し、読み直したというわけです。手持ちのこの本は、1991年2月25日第1刷、4月25日に第7刷ですから、わずか2ヶ月で7刷、当時、爆発的に売れた本のようです。ちょっとホラーがかった「ドミトリイ」と「夕暮れの給食室と雨のプール」を入れても全部で189ページの本です。

第1回「本屋大賞」を受賞したことで話題になった「博士の愛した数式 」、僕が読んだのは「本屋大賞」を受賞する前でした。この本、なにかのついでに知人に紹介したんですが、というより、数字や阪神タイガースの話が出てくるので、僕にとってはそれほど面白い本でもなかったので、今こんな本読んでるよ、という感じで話したんです。それがなんと、案に相違して面白かったという感想、なんかこの本から「共感」が得られたんでしょうね。もう一度読み直してみるべきかも?

「彼のことを、私と息子は博士と呼んだ。そして博士は息子を、ルートと呼んだ。」という書き出しで始まるこの本、本の帯には「世界は驚きと歓びに満ちていると、博士はたった一つの数式で示した―記憶力を失った天才数学者、と私、阪神タイガースファンの10歳の息子。せつなくて、知的な至高のラブ・ストーリー著者最高傑作。」とあります。 80分前までの記憶しか覚えられない老博士とルートと呼ばれる少年のやりとりが心温まります。

と、ここまで書いたら、タイミングよく「博士の愛した数式」の映画化の情報 が。博士に寺尾聡、義姉に浅丘ルリ子。家政婦に深津絵里、成長した家政婦の息子・ルートに吉岡秀隆。キャストには異論があるのは分かりますが、ひとまずそれはおいといて。監督は、故黒澤明監督の愛弟子で知られる小泉堯史監督、「雨あがる 」「阿弥陀堂だより 」に続く第3作です。前2作は僕も見ました。寺尾聡は3作連続で小泉監督作品に主演することになります。2005年4月クランクイン、2006年1月公開か!

もう一冊、「ブラフマンの埋葬 」、芸術家村の管理人と小動物との交流、を描いたさわやかな146ページの短編。これも先日ブックオフで購入しておいたもの。実は昨晩一晩で一気に読んだものです。

その他に、数ヶ月前に文庫本二冊を購入してあり、ちくま文庫の「沈黙博物館」、そして中公文庫の「余白の愛」の二冊ですが、長編なのでいつ読めるか、今のところ出番を待ってる状態です。

MoMAの改修工事が完了、2年ぶりに一般公開

パフィー 」が主人公のアニメ番組が19日から全米で始まったというニュースは、「パパパパ パフィー 」をいつも見ていたパフィーファンの僕にとっては驚きでした。番組名は「ハイ ハイ パフィー アミユミ 」で、8700万世帯で視聴可能だという。毎回、冒頭と終わりに2人が実写で登場するのが特徴で、主題歌や挿入歌もパフィーの歌だという。なんか、これって凄くない?って思うのは僕だけか!

それはさておき、アメリカ進出、と言えば、これ、「MoMAの改修工事が完了、2年ぶりに一般公開 」というニュース!記事の一部を引用すると、改修工事のために閉館していたニューヨーク近代美術館 (MoMA)が20日、2年ぶりに一般公開を再開した。改修費は8億2500万ドルで、展示面積も6万3000平方メートルと以前のほぼ倍になった。設計を担当したのは日本人建築家の谷口吉生氏。以前のMoMAは、様々な建物が点在して出来上がった複合体だったが、谷口氏はこれをひとつにまとめ上げた。

谷口吉生」、ご存じの方は少ないと思います。建築界のサラブレット、という言い方が適当かどうか。なにしろ父親は金沢の九谷焼の窯元の出「谷口吉郎」(1904~1979)、日本建築界の大御所です。東京工業大学の教授で明治村の館長。確か丹下さんと東大で同級生だったんじゃないかな?モダニズム建築の「東工大第水力実験室 」でデビュー。戦後すぐ資材がない時に「藤村記念館 」をつくり戦後初の建築学会賞、「秩父セメント第2工場」では1956年度の工場としては異例の建築学会賞。よく知られているのでは慶應義塾大学 三田キャンパスの幾つかの建物、最近イサム・ノグチとの共同した建物「新萬来舎」の保存問題がありましたね。それから、上野の「国立博物館東洋館」、竹橋の「国立近代美術館」、等々、挙げればきりがない。

僕が谷口吉生を知ったのは、丹下事務所を辞めて高宮真介との共同事務所「設計工房」の作品、掛川市の新幹線から見える1978年の「資生堂アートハウス 」これは1979年度建築学会賞受賞作品、それから酒田市にある1983年の「土門拳記念館 」が最初、印象に強く残っています。「葛西臨海水族園 」もそうです。1978年の「金沢市立図書館 」は父親谷口吉郎の故郷で父親との共作です。その後、谷口事務所 になり、「信濃美術館・東山魁夷館 」、丸亀市の「猪熊弦一郎美術館 」、「豊田市美術館 」、そして2001年度建築学会賞を受賞した「法隆寺宝物館 」となるわけです。ホント順風満帆、仕事に恵まれていますね。国立博物館の敷地内にある「法隆寺宝物殿」(上の写真)、先日僕も見てきましたが、「静謐」とはこのことかと思いました。とはいえ、あまり日本ではポピュラーな建築家ではありませんが、専門家の間では評価が高い人です。

谷口吉生が指名コンペで勝ち取った「MoMAの増築工事 」、ついに出来たんですね。MoMAはニューヨークのど真ん中にあって、長年、増築、増築で、その場しのぎできた美術館なんですね。最初は1939年、白っぽいファサードでエドワード・ストーンだったかな?その後、1951年、64年にフィリップ・ジョンソンもミースふうのファサードで付け足して、彫刻ガーデンはジョンソンが整備したと思う。その後、1994年にシーザー・ペリも展示室を拡張し資金源として高層の住居棟を立ち上げました。はっきり言って統一されたコンセプトがあったわけではない、近年は相当混乱していたようです。それを整理したのが谷口案だったと言われています。

僕が見に行ったのはなにしろ昔、シーザー・ペリが増築する前でしたね。MoMAはモダン・アートが主なので、見た絵画をあまりよく覚えていない、と言うか、中庭の彫刻作品をちょっと見ただけで終わってしまいました。そうそう、誰の作品だったか毛沢東の大きなタペストリーが印象に残っています。どのように変わったのか、また行ってみたいですね、ニューヨークへ

古美術店で買ったキリスト像、ミケランジェロ作と結論

5月21日の朝日新聞に、こんな記事が載っていたんですね。
古美術店で買ったキリスト像、ミケランジェロ作と結論
この記事、古美術店で個人収集家が購入した木製のキリスト像が、専門家チームが15年に及ぶ多角的な調査の結果、ルネサンス文化を代表する巨匠ミケランジェロの作品とみられることがわかった、というもので、これには驚かされました。

そうですね、これが今開催されている「フィレンツェ・芸術都市の誕生展」の目玉、ミケランジェロの真作だという鑑定結果がなされた「磔刑のキリスト」ですね。決め手はこの像の顔立ちがヴァチカンにある「ピエタ」のキリストと酷似している、と研究グループは見ているからだそうです。ということは、先日ちょっと書きましたが。

昨日の夕刊、「ま、ここまで行けばご立派」と題して、「雑誌もいまや完全に30代、40代のオトナ頼みだ。『ちょいと不良(ワル)オヤジ』のコピーで売った『レオン』(主婦と生活社)の姉妹誌『ニキータ』には驚いた人も多かったのではないだろうか。なにせ創刊号の特集は『コムスメに勝つ』である。」という、格調低い斎藤美奈子チャンの記事。

その記事の隣ですが、文化芸能欄「一展逸点」にも、「磔刑のキリスト」写真入りで格調高く載ってました。「静けさとそして気高さと。」と評してありました。少し引証すると「高さは41センチしかないが存在感がある。右胸の下の刺し傷や手足の穴が痛々しい。うなだれ、磔刑で両手を広げて姿は、まさに鳥が羽ばたく瞬間。」とあります。なにしろ20歳の頃の作品と見られているというから、我々凡人と違って、万能の天才は凄いものがあります。

決め手になったローマのヴァチカンにある「ピエタ」は、ミケランジェロ24歳の頃の大傑作で、僕も二度ほど見ました。そして、ミラノのスフォルツェスコ城美術館の「ロンダニーニのピエタ」、この作品はミケランジェロが88歳で死ぬ3日前まで制作を続けていたという未完の作品です。

実は、前回ミラノに行った時に、是非とも「ロンダニーニのピエタ」を見たいと思い、美術館の中を探しまくったのですが、なぜかすぐ近くまで行きながらたどり着くことができなかった、という作品だったので、残念でなりません。

旧岩崎邸庭園

「台東区池之端の旧岩崎邸庭園 が開園3周年を迎えたのを記念して、明治期の代表的な西洋木造建築である洋館の夜間ライトアップが19日から始まった。来年1月10日まで、週末の金~日曜日を中心に計28日間照らされる。」という記事が、朝日新聞に載っていました。

そういえば、先日、行って来たんですよ、旧岩崎邸へ。友人から、というか、呑み友だちですけど、どういう風の吹き回しか、「街歩き」に誘われました。誰の発案か、まあ僕は、運動不足解消がてらに、街を歩くのもたまにはいいかという便乗組でしたが。
神保町のすずらん通りから明治大学、ニコライ堂、お茶の水、聖橋、湯島聖堂、湯島天神、神田明神、東京大学構内を抜けて上野公園から谷中・根津・千駄木へ向かうという一日コース。午前10時に友人6人と神保町で待ち合わせ、ドトールでコーヒーを飲んでから、いざ出発。途中、神田明神参道横の「天野屋 」で名物の「甘酒」をいただき、東大学生食堂での遅い昼食、けっこうな強行軍でした。そうそう、思い出しました。街歩きが終わってから地下鉄で広尾まで、笠間で作家活動をしている共通の友人の「陶器展」へ行って、それから打ち上げの呑み会に出たんだっけ!

その「街歩き」の途中に、まったく予定に入っていなかったんですが、一般公開されている「旧岩崎邸 」の前を偶然通りがかり、これはチャンスとばかりに、くまなく見学してきたというわけです。「旧岩崎邸」の洋館は、三菱財閥三代目当主だった岩崎久弥の本邸であり、1896年(明治29年)に建てられました。往時は1万5000坪あまりの敷地に20棟もの建物が並んでいたといいます。池之端文化センター横の門を通り抜け、なだらかな坂道を上り左に曲がると、前庭のシュロの木越しに木造の洋館 が現れます。17世紀英国のジャコビアン様式を基調に、ルネサンスイスラム様式も取り入れられているといわれています。

内部の階段室は圧巻で、随所に施された繊細な彫りが、優美な印象を与えるジャコビアン様式の意匠で統一されています。玄関やベランダに敷き詰められたイスラム風デザインのタイル、部屋ごとに異なる寄せ木細工のフロア、壁紙は欧州の伝統革工芸を和紙で模した「金唐革紙 」、部屋ごとに雰囲気にあわせた暖炉やスチームの模様など、どれをとっても見所満載、お見事というほかありません。
洋館南側は列柱が立ち並んでいる大きなベランダ があり、1階列柱はトスカナ式、2階列柱はイオニア式です。隣接する和館は純和風の書院造りが基調で、完成当初は建坪550坪におよび洋館をはるかにしのぐ規模だったといわれています。当時の生活は、普段は和館で家族暮らし、洋館は主に接客用として使われていたことを物語っています。また東側にはスイスの山小屋を思わせる撞球室、つまりビリヤード場があります。

昭和36年に洋館と撞球室が国の重要文化財に指定され、和館大広間は昭和44年に、さらに宅地、煉瓦塀も含めた屋敷全体が平成11年に指定されました。
設計はジョサイア・コンドル 、明治10年日本政府の招聘により来日しました。工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)の初代教授に就任し、日本で初めて本格的な西欧式建築教育を行いました。門下生には東京駅の設計で知られる辰野金吾や赤坂離宮を設計した片山東熊など、近代日本を代表する第一級の建築家がいます。コンドルは鹿鳴館、上野博物館、ニコライ堂なども設計しました。また河鍋暁斎 について日本画を学び、日本人を妻とするなど、終生日本を愛した、お雇い外国人 です。

800年を越えて甦る王朝貴族の生活

国宝「明月記」は京都の冷泉家に伝わる藤原定家(1162―1241)の日記です。その全巻を展示してあるということなので、ちょいと出かけてみるかと、上野毛の「五島美術館」へ行った。

ところが、いやはやビックリ、案に相違して長蛇の列。
あまい、国宝がそんなに簡単に見られるわけがない。
とりあえず今日は、すごすごと引き下がってきました。

そう言えば、この近所に「吉行淳之介」の住まいがあったな!
NHK BS2で「あぐり」、再放送してましたね。

史上最も偉大な500曲

米音楽誌ローリング・ストーン最新号は「史上最も偉大な500曲」を掲載。1位にボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」が選ばれた。歌手や評論家ら172人を対象にしたアンケートを実施し、ベスト500を選出した。2位はローリング・ストーンズの「サティスファクション」、3位はジョン・レノンの「イマジン」。500曲のウチ200曲以上が1960年代に、144曲が70年代に録音された「オールディズ」。過去10年間の曲で選ばれたのは3曲だけだった。
という記事が一昨日の夕刊に載っていました。

昨日、フジテレビの朝の番組「特ダネ」で司会の小倉智昭がさっそくそれを取り上げていました。小倉は、自分としてはイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」とか、みんなで作られたものだけど「ウィ・アー・ザ・ワールド」、そして日本でアンケートをやればビートルズの「イエスタディ」が上位にくるんじゃないか、と発言していました。アシスタントの佐々木恭子チャンは、スピーディ・ワンダーの曲も、と。アンケートに答えた歌手や評論家は、どうせ年寄りだろうから、最近の曲は知っていてもそれを選ぶのは沽券にかかわるだろうし、自分たちの年代に流行った曲を選んでおけばというのが、最近の曲が少ない要因だろう、という話も出ました。

さて、アンケートの結果には異論反論があるでしょうが、ボブ・ディランの話に。
ボブ・ディランは1941年生まれ、初期はウディ・ガスリー直系の弾き語りから出発して、社会的、反体制的なメッセージを与え、「風に吹かれて」は反体制運動の聖歌となり、「フォークの神様」と言われました。反戦歌の女王ジョン・バエズと同じ指向を持った歌手といった印象があります。その後ロックに転向したミュージシャンで、そのことは誰でも知っています。がしかし、ローリング・ストーンズやビートルズと違って、ボブ・ディランは、正直に言って、僕は同時代的にはよく知らない人です。もちろん、聞けば、あっ、これはボブ・ディランの曲だ、というのはすぐに分かりますが、ストーンズやビートルズのようにリリースと同時に聞いていたということがなかった歌手です。あくまで僕の場合。85年、USAフォー・アフリカの「ウィ・アー・ザ・ワールド」で、ちょっと音程の狂った歌い方でトリをつとめていましたが。

ライク・ア・ローリング・ストーン」は、1965年6月15日に録音されて、オリジナルは 「HIGHWAY 61 REVISITED」 に収められている名曲です。とはいえ、果たして「最も偉大な500曲」の一位に君臨する曲なのだろうか、という疑問が僕にはあります。前にも書いた「バングラデシュ・コンサート」の中で自分のコーナーを与えられて歌った5曲、「A HARD RAINS GONNA FALL」「IT TAKES A LOT TO LAUGH/IT TAKES A TRAIN TO CRY」「BLOWIN IN THE WIND」「MR TAMBOURINE MAN」「JUST LIKE A WOMAN」に比べれば、ちょっとどうかなとも思います。まあ、ボブ・ディラン本人には関係ない話でしょうが!

もちろん、前にもこんな順位決めみたいな記事が何度もありましたし、メディアの常套手段でもあります。それについつい乗っちゃって、自分が知ってる曲が何曲あるか、という方に行っちゃうというのも、これもまた浅はかだとも言えます。日本には「演歌」があるように、って、比較する方がおかしいかも知れませんが、例えばジョニー・キャッシュとか、「カントリー&ウエスタン」の大御所が、アメリカには一般市民から多くの支持を受けてるようですし。って、今日も、長いばかりでまとまりのない話。

もう、ころ柿の季節か

朝日新聞に「特産ころ柿作り最盛期に 山梨・塩山」という写真が載っていました。この写真を見て思い出しました。この真っ赤な簾の風景です。山梨に行ったのは、去年の今頃でした。

忘年会代わりに近場の温泉にでもということで、友人達と連れだって、石和温泉の近くの「ホテル春日居」へ行きました。仲間に塩山出身の方がいて、段取りからすべてをお願いして、ホテルを取ったり値段の交渉までもして貰ったわけです。帰りがけにその方のお兄さんが箱入りの「枯露柿」をおみやげに持ってきてくれました。そのまま真っ直ぐ帰るのもどうかと思い、この近くになにか見るところはないかとその彼に聞くと、すかさず、武田信玄の菩提寺があるよ、という返事があり、彼の案内で乾徳山恵林寺を見学してきたというわけです。

で、いやはや参りましたよ、帰ってから知人に恵林寺へ行ってきたと自慢げに言ったら、「天竜寺や西芳寺(苔寺)もいいですよ」とさりげなく言われて、その三つのお寺が僕の中でまったく結びつきませんでした。実は、あとで調べてやっと分かったのですが、そのキーワードは「夢窓国師」でした。

乾徳山恵林寺は夢窓国師開山の古刹です。1573年(天正元年)4月に信玄が病死し、遺言により3年間は喪が秘されましたが、1577年に快川国師を大導師としてこの恵林寺で大葬儀が行われたました。天正10年(1582)織田信長の焼き打ちに遭い、炎に包まれた「三門」楼上で快川国師は百余人の僧侶と共に「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」を唱え、泰然自若して武田氏の滅亡に殉じ、火定されたと言われています。よく使われるその言葉は、現在も「三門」の両脇の柱に掲げられています。調べてみると、杜荀鶴の「夏日悟空上人ノ院ニ題スル詩」を快川国師が引用した、ということのようです。「四脚門」は通称「赤門」「中門」と呼ばれ、信長の兵火からも免れて現存しています。

恵林寺が焼き討ちを受けた2ヶ月後、「本能寺の変」で信長が死に、その後徳川家康が寺の再興を命じ、代々徳川家から外護され、境内には15の坊院、境内だけでも3万6 千坪、一里四方の山林に囲まれていたようです。明治38年2月の失火によって全焼、現存の本堂は明治末に再建されたものです。奥には思っていたよりは小さな信玄の墓がありました。

裏手にある庭園は夢窓国師作庭と言われ、上段が枯山水、下段が池泉回遊式の2段構えで、ツツジの頃が最も美しいようです。池は「心の字池」、心の字を形どっています。同行の人に「北側にある庭が陽が当たって一番きれいに見えるんですよ」と、利いた風の口を利きながらの見学でしたが、実はその時は夢窓国師の庭だとは?夢窓国師が築庭した庭園としては、京都の天龍寺西芳寺(苔寺)とともに、国師築庭の代表作と言われているようです。

見学を終えて、お寺の参道横の茶店で名物の「よもぎ団子」をいただきました。そして、その近所の民家の軒先には、名物の「枯露柿」が真っ赤な簾のようにたくさん吊してあり、この地方特有の風物詩を見たというわけです。