河野多恵子の「秘事」を読む! | 三太・ケンチク・日記

河野多恵子の「秘事」を読む!


河野多恵子について、このブログで触れたのは2個所あります。いずれも芥川賞を受賞した作品の「選評」の個所を引用しています。2月20日の個所。いつも歯切れのいい河野多恵子、今回は「グランド・フィナーレ」については、見事に一言もふれていません、無視、無視3月15日の個所。花村萬月の「ゲルマニウムの夜」。河野多恵子「確かな手応えを感じた。主人公の<悪あがき>にある真摯さに深い説得力があり、いたく引き込まれた。」と、絶賛。とあります。8月17日に書いた<芥川賞受賞作、中村文則の「土の中の子供」を読む!>では、河野多恵子の「選評」については、僕は特に触れてはいませんが、それは「今回の候補作には、ぜひとも受賞作にしたいものがなくて残念だった。」とあるからです。


そうです、河野多恵子は芥川賞の選考委員でもあります。著者略歴によると、1926(大正15)年、大阪生れ。大阪府女専(大阪女子大学)卒。「文学者」同人になり、’52(昭和27)年、上京。’61年「幼児狩り」で新潮社同人雑誌賞、’63年「」で芥川賞を受賞。著者に、「不意の声」「谷崎文学と肯定の欲望」(共に読売文学賞)、「みいら採り猟奇譚」(野間文芸賞)、「後日の話」(毎日芸術賞、伊藤整賞)など。日本芸術院会員。という、そうそうたる経歴の持ち主です。



そこで、本棚から引っぱり出して手にしたのがこの本。「小説の秘密をめぐる十二章」(平成14年3月15日第1刷発行)です。内容はというと、こんな本です。「小説はいかに書くべきか、文学の心得とはなにか。いまもっとも豊潤,かつ過激な作家河野多惠子が明かす創作の秘密。「デビューについて」から始まり「作家の嫉妬について」「剽窃の危険」に至るまで。『文学界』連載の単行本化」。河野多恵子のことを、ほとんど知らないで読んだ本、この本には参りました。歯切れがよくてテンポがよくて、言いたいことをものの見事にズバリと言ってのけます。「小説の書き方」を書いた本が数限りなく出ていますが、この本の右に出るものはありません。何度も読み直したい一冊です。


「河野多恵子のことは、ほとんど知らない」と書きましたが、本棚を探してみると「純文学書き下ろし特別作品」と銘打った、新潮社版、ハードケース入りの「回転扉」という本が出てきました。1970年11月20日発行ですから、今から35年前の作品です。ケースの裏を見ると、僕の好きな作家、吉行淳之介大江健三郎が「短評」を書いています。読んでいたんですね、35年前に!当然、内容についてはほとんど忘れていますので、これも読み直したい作品の一つです。


本の帯には「夫婦という《かくも素晴らしき日々》21世紀の小説を先駆ける傑作長編!」とある、河野多恵子の「秘事」を読みました。内容は以下の通り。「幸福な結婚」に隠された秘密とは。三村清太郎と麻子は、大学で知り合った、昭和11年生まれの同級生カップル。夫は一流の商社で順調に出世し、妻は聡明で社交的な、周囲も羨む睦まじい夫婦だ。だが、この結婚にはある事故が介在していた。周到に紡がれた夫婦の日常の結晶。とあります。


実は僕は「秘事」というタイトルに惹かれて、やや不純な気持ちでこの本を読み始めたのですが、完全な肩すかしでした。帯に書いてある通り、「夫婦はかくも素晴らしい」という小説であって、タイトルの「秘事」から想像するような小説ではまったくありません。交通事故の縫合手術で取りわすれられた糸をあとで抜く、そのときの感じが性交の感じと似ているといって顔をあからめるところや、夫婦がベッドではなく床に降りて、畳のもつ固さ快楽にふさわしい褥であるという、河野多恵子らしさが現れているところがあるにしても。男と女が結婚をし、共に淡々と生活をし、一生を終える。取り立ててなにが起こるというのではない平々凡々な生活、これほど「健全な夫婦」は他に例を見ません。昭和11年生まれの夫婦。読み終わってみると、高度経済成長期の一番いい時代に生きた夫婦であったということができます。僕らの時代は、こう簡単には行かないと思いますが。


麻子が死に瀕した場面で、以下の会話があります。
「麻子、僕はあんたが好きなんだ。何ともいえずに好きなんだ」と三村はベ ットの傍に屈んで言う。「ありがとう」と彼女が言った。「─どういうところが好きなの?」「感じがいいもの、ほんまに気持ちいいもの」「そうお風呂みたいね」と彼女は言って、けたたましく笑いだした。「ああ、おかしい」と言っては、ますます笑う。三村は笑顔になってやりつつ、ますます哀しくなる。
─僕はあんたとひたすら結婚したくて結婚したんだぞ。侠気や責任感はみじんもなかったんだ。それをあんたに言うてやりたかった。だが言うてやれなかった。これまで決して言わなかった。─彼は自分の臨終で言い遺してやるつもりだった。その言葉を無言で彼女に告げ続けた。


彼は自分の臨終でそのことを言い遺してやるつもりでした。予期に反して彼女の方が彼より先に臨終を迎えることになり、彼はそれを無言で病床の彼女に告げます。清太郎が麻子と結婚した理由は、麻子の怪我という「秘事」に対する同情からだったということのように見えますが、実は本当の理由は、清太郎が臨終の時に語りたかった言葉で、それが「秘事」であったということだと思われます。人はそれぞれ平々凡々と生きています。しかしそれは、他に代え難い自らのそれぞれに物語を持っています。なんの変哲もない物語が実はなかなか味わい深いものであるということを、逆説的に河野多恵子は言っているような気がします。


追記:
山田詠美の「ベッドタイムアイズ」が、文芸賞を受賞したときの河野多恵子の選評で、「感性や知性を認識手段とするだけでは捉えきれない未踏の真実を的確に生み出し、本当の新しさを示す。」と絶賛しています。と引用していました。