佐伯一麦の「鉄塔家族」を読んだ! | 三太・ケンチク・日記

佐伯一麦の「鉄塔家族」を読んだ!


久しぶりに長い小説を読み終えたという実感があります。なにしろ大判で550ページもある長編です。さもありなん、2002年7月29日から2003年11月15日まで約1年と3ヶ月、386回に渡って、日本経済新聞の夕刊に連載たれたいわゆる「新聞小説」です。多かれ少なかれ、この小説の形式を決めているのがこの「新聞小説」という枠組みです。新聞連載中は、毎回400字で3枚弱の原稿を毎日一回分ずつ書いていったそうです。


それにしても長い小説です。2004年6月25日第1刷、出版された時に好意的な書評を読んで、いつかは読んでみようと思っていた作品です。著者の佐伯一麦は、この作品で第31回大佛次郎賞を受賞しています。井上ひさしは大沸次郎賞の選評で「身辺雑記で長編を書くという実験的な試みはみごとに成功した」と書いています。


「トムソーヤごっこかチャンバラをするときは、少年たちは『』へと自転車を走らせる。目印は『』のてっぺんに建っている細長い鉄塔だ。その形から少年たちは、ロケットの発射台と呼んでいる。」そう、この鉄塔がこの作品のシンボルとなっています。「無機的な鉄塔にも、情が宿る瞬間がある」と、佐伯一麦は言います。



小説家の斎木鮮とその妻の草木染作家・菜穂が主たる登場人物ですが、彼ら2人以外にも鉄塔がシンボルとなっている町に住む多くの人たちを主人公とした物語です。斎木と菜穂、居心地の良い喫茶店のオーナー夫妻、この町に長年単身赴任しているサラリーマン、子供が独立して一人住まいの老婦人、等々。


斎木は離婚した前妻や子供たちとのしがらみを抱えていますが、この物語に登場するどの人たちにも、これまでの人生で抱え込んだ何かしらの問題を抱えています。それまで見知らぬ他人同士だった人たちが、物語の中でさまざまに交錯します。人と人との触れ合いを喜び、草木の花や、鳥の鳴き声の移ろいを慈しむ生活。そこには生きる歓びや哀しみがあり、小さくとも確かで広やかな世界があります。核家族化し、都会化している現代の日本社会において、ここに描かれているのは一種の「ユートピア」なのかもしれません。ここに描かれた社会こそが「コミュニティ」と呼ばれる理想郷なのでしょう。


前半は、ほとんどが身辺雑記の羅列で、文章も細やかで丁寧に描かれ、淡々と過ぎていきます。なんの抑揚もなく、やや退屈なほど、しみじみと読ませます。後半になり、突然、前妻の家から家出した息子の話が出てきます。斎木と妻の奈穂が東京に出てアパートや勤め先を探したりしますが、結局は斎木夫婦の下で手伝いをすることになります。前妻は、自己中心的でエキセントリック、斎木と離婚後、子どもまで設けたりします。現在の妻は、家庭教師として登校拒否の子供達の相手もした経験を持つという、この対比があまりにも極端に描かれています。前半の静謐に流れる物語が、突如、後半にきて別の物語が入り込んで、破綻をきたすような感じがしました。登校拒否の子どもの言うなりになってるところや、前妻が原因で斎木は鬱病になり自殺未遂までしたと暗示しているところは、違和感を感じました。



著者の佐伯一麦は、仙台の高校を卒業後、18歳で上京、若き日は電気工をしながら小説を書いてきました。結婚、育児、そして離婚、転居も20回ほど繰り返しました。変わりゆく環境の中で、自らの心と身の傷、家庭の修羅を見つめてきました。この7年ほどは故郷の「杜の都」に戻り「定点観測」しながら執筆活動を続けています。地域に根ざした、貴重な「私小説作家」と言えます。「鉄塔家族」は、作者の実生活と思わせるほどのリアリティを感じました。「見慣れている風景は面白い。同じように見えて、1日として同じ風景はないから飽きることがない。鳥が鳴く日もあれば、鳴かない日もある。毎日見ていると、花がつき、枯れる、1年のサイクルもわかるし、見ているはずの自分が、鳥や植物から見られているような感じにもなってくる」と、佐伯一麦は言います。