三太・ケンチク・日記

謝辞:

長い間、僕のつたないブログを読んでいただき、
本当にありがとうございました。

このブログは、予告したとおり、本日をもって一旦休止いたします。

いつの日にか、どこかでお会いできるのを楽しみに、
ごきげんよう、さようなら!

(2005年10月23日)

Amebaでブログを始めよう!
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ブログを初めて、もうすぐ1年!

2004年10月24日に最初の記事を書き込んでから、(アメブロのメンテで1日休みましたが)毎日休みなく駄文を書き連ねてまいりました。それも早いもので丸1年が過ぎようとしています。これもひとえに皆様方読者のご支援のたまものと感謝しております。ありがとうございました。これからも、気力、体力の続く限り、頑張りますので、よろしくお願いいたします。(10月1日)


「これからも」と書きましたが、10月24日以降、僕の仕事上の関係で、今までと同じようにはブログに時間が割けない状況になるため、一旦、ここでこのブログを休止することになりましたので、ご承知おき下さい。(10月10日)

大江健三郎について

ノーベル賞作家大江健三郎、といっても、小説は意外に読まれていないんですよね、ノーベル賞作家として名前が知られているわりには。障害を持った子供の親としての方が知られてる?読んでもいないのに、難解な小説だと決めつける人が多い?読んだとしても、最後まで読めない人が多い?大江健三郎の小説が読まれていないのは、どうしてなんでしょうか?大江健三郎を、10代の頃から長年読んできたものとしては、残念でなりません。


とりあえず、僕の手元にある本だけでも並べてみましょう。

とはいえ、僕がリアルタイムで読み始めたのは60年代中頃からですが・・・
1950年代
 死者の奢り
 飼育
 芽むしり仔撃ち
 性的人間
 セヴンティーン
 われらの時代
 遅れてきた青年
1960年代
 政治少年死す
 叫び声
 空の怪物アグイー
 日常生活の冒険
 個人的な体験
 万延元年のフットボール
 我らの狂気を生き延びる道を教えよ
1970年代
 洪水はわが魂に及び
 ピンチランナー調書
 同時代ゲーム
1980年代
 新しい人よ眼ざめよ
 いかに木を殺すか
 河馬に噛まれる
 懐かしい年への手紙
 人生の親戚
1990年代
 静かな生活
 燃えあがる緑の木 第一部 「救い主」が殴られるまで 
 燃えあがる緑の木 第二部 揺れ動く<ヴァシレーション>
 燃えあがる緑の木 第三部 大いなる日に
 宙返り 上・下
2000年代
 取り替え子(チェンジリング)
 憂い顔の童子
 さよなら、私の本よ!


大江は自分の作品を、「奇妙な仕事」から64年の「個人的な体験」までを初期とし、四国の森を舞台にした67年の「万延元年のフットボール」から99年の「宙返り」までを中期としてとらえています。そして、97年に自殺した伊丹十三への追悼の思いを込めた00年の「取り替え子(チェンジリング)」、老作家のドン・キホーテ的なドタバタ劇「憂い顔の童子」、そして「さよなら、私の本よ!」と続くのが「後期の仕事(レイターワーク)」として位置づけています。


ということで、まずは、「燃えあがる緑の木」第一部「救い主」が殴られるまで、第ニ部揺れ動く<ヴァシレーション>、第三部大いなる日に。これは、大江健三郎が「締めくくり」と呼ぶ、最後の3部作であり、93年から95年にかけて、1年ごとに刊行されたものです。森に囲まれた谷間の村で繰り広げられる、「救い主」と見なされたギー兄さんと、今は女性として生きる両性具有のサッチャンの再出発から、ギー兄さんの最後の決断と突然の死、そして未来への励ましに満ちた大いなる結末!この3部作は、前作「懐かしい年への手紙」の続編でもあると言えます。さらに言えば、「懐かしい年への手紙」と次作「宙返り」へと至る、スーパー三部作第二部と言うこともできるものです。


次は、「宙返り」上・下。最後の3部作「燃え上がる緑の木」、自ら「締めくくり」と呼び、一旦はもう小説を書かないと宣言した大江健三郎の、小説復帰第一作目です。ノーベル賞受賞から5年目の1999年6月に刊行された作品。瞑想によって神との交信を行うという師匠(パトロン)、師匠(パトロン)が瞑想後に語る言葉を聞き取る案内人(ガイド)。2人は暴走する教団内の急進派を押さえるために、自らの教義を否定し、すべて冗談だったと「宙返り」を行います。それから10年後、彼らは再び活動を再開します。


そして、「取り替え子(チェンジリング)」、「憂い顔の童子」を経て「さよなら、私の本よ!」です。「取り替え子(チェンジリング)」は、自らの意志で向こう側へ行ってしまった友-義兄の映画監督伊丹十三に捧げる作品ですね。「さよなら、私の本よ!」は、その吾良の語りかけへ古義人が返答するという対話から始まります。「取り替え子(チェンジリング)」の続編「憂い顔の童子」は「取り替え子」の設定はそのまま引き継がれます。主人公の長江古義人は、母親の死をきっかけに、母親の遺志にしたがい森の中の村へ長男のアカリとともに移り住むことになります。

そして、最新刊「さよなら、私の本よ!」です。第一部は「むしろ老人の愚行が聞きたい」、第二部は「新だ人たちの伝達は火をもって」、第三部は「われわれは静かに静かに動き始めなければならない」というタイトルが付けられています。国家の巨大暴力に対抗するため、個の単位の暴力装置を作る繁と、人類の崩れの「徴候」を書きとめる古義人。「おかしな2人組」の、絶望から始まる希望を描く長編小説です。


おれの母ときみのお母さんに密約があったとして……つまりおれときみがね、おたがいに相手のために死のうとする間柄だ、と考えることを彼女らは望んだわけだ。そのおれたちが、こうして老人となり、もうあらかた、現世でやっておかねばならぬ仕事はやりおおせた。そういう境遇で、徹底して新しいことをやってみる気になれば、それは面白いものになりうるのじゃないだろうか? なかなか得難い結ばれ方の、二人組のやることだぜ。
大江健三郎:「さようなら、私の本よ!」より



大江健三郎が70歳を過ぎ人生の節目仕事の区切りが重なって、「晩年の仕事の方向性が見えてきた」と語ります。講談社は、「大江健三郎賞」の創設を発表しました。ノーベル賞作家の大江健三郎が1人で選考にあたり、可能性、成果を最も認めた「文学の言葉」を持つ作品を受賞作とするそうで、賞金はなく英語への翻訳と世界での刊行を賞とするとのこと。大江は、「世界に向かって日本のいい文学の言葉を押し出したい。日本の国内で純文学は話題にされなくなっているが、社会の中心にいる人に、もういちど小説を本気で読んでみませんか、と伝えたい」と言います。粗悪な賞が乱立し、安易に作家を粗製濫造している現在、この賞が社会に定着し、成功することを祈ります。



先日、「世界一のインテリは誰か」という調査で、米国の言語学者でマサチューセッツ工科大学(MIT)名誉教授のノーム・チョムスキー(76)が断然トップになったというニュースが流れました。大江健三郎も、小説だけではなく、「ヒロシマノート」や「沖縄ノート」を始め、過去40年間戦争など政治・社会的な課題を声高に一貫して批判してきた人物としても知られています。憲法改定の動きに対しては、加藤周一らと「9条の会」を発足させて、各地で精力的に講演活動も行っています。「世界一のインテリ」とは言わないまでも、大江健三郎こそ、日本の良識を導き代表する知識人と言えると思います。

「世田谷アートタウン2005 三茶de大道芸」


世界の大道芸人たちが街中でパフォーマンスを繰り広げる「世田谷アートタウン2005 三茶de大道芸」が22日、23日、世田谷区の田園都市線「三軒茶屋」駅周辺で開催されました。日本国内やフランス、イギリス、オランダ、韓国、中国など、世界各国から35組の大道芸人が参加しました。キャロットタワー前広場や地下道など8個所で、パントマイムやアクロバット、ストリートミュージックなどを披露しました。今年で9回目で、昨年は16万人が訪れたそうです。昨日はちょっと天気がよくなかったのですが、今日は晴れて暑いぐらいで、多くの人出で賑わっていました。






大森立嗣初監督作品「ゲルマニウムの夜」に期待する!


製作総指揮は荒戸源次郎、監督は新人の大森立嗣、期待の「ゲルマニウムの夜」がいよいよ上映されますね。第18回東京国際映画祭コンペティション部門に出品され、10月22日、25日、28日と3日間に渡って「 VTC 六本木」で上映されるようです。ん?今日からですよ、今日から



あらすじはこちら。
教会の教護院に舞い戻ってきた主人公・朧。冒涜の限りを尽して、宗教を試す。ゲルマニウムラジオの透明なイヤホンから神の囁き。なぜ、生の中に閉じ込められているのか。その答えなど無いことが分かっているのに。ただ別の思いは薄らと漂う。“生きることは喜びに満ちている”その喜びには傷つくこと、痛むこと、苦しがり、そして苦しがらせること、絶対に逃げ切れない虚しさも含まれている。でもなぜだか希望を感じてしまう。それが何で、どこに続くかは誰にも分からないのに。「ゲルマニウムの夜」HPより



映画監督にはどうしたらなれるのか?かつて大手五社の映画会社が華やかなりし頃は、それなりの監督への道筋がありました。たとえば松竹三羽烏大島渚吉田喜重篠田正浩らは、松竹という大会社の中で、競って脚本を書き巨匠について学び、少しずつ階段を登っていきました。そして、看板女優と結婚し、実績を積み、独立の道を歩みました。そのようなシステムが無くなった今の時代、監督になろうとしても、そう簡単ではありません。名の売れた監督の元で長い間下積みをしたとしても、監督になれる保証はありません。



大森立嗣1970年生まれ。まだ34 歳の若さです。父親は舞踏家で「大駱駝艦」の創始者である麿赤兒、弟は俳優の大森南朋阪本順治監督、井筒和幸監督らの作品に助監督として参加し、2003年、「赤目四十八瀧心中未遂」(荒戸源次郎監督)の製作に携わります。2005年、満を持して「ゲルマニウムの夜」で初監督のチャンスがめぐってきました。そして、作り上げました。東京国際映画祭のコンペティション部門に出品されました。とはいえ、結果はまだ出ていません。今後、この映画がどう評価されるかにかかっています。現在の日本の映画風土の中で、荒戸源次郎に認められて映画作りをまかされることは、希有な才能でなければならないはずです。期待していいでしょう。成功を祈る!



さて、上映方式が通常の映画とは異なり、荒戸源次郎は独自の方式をあみ出しました。2005年12月中旬より東京国立博物館内に特設映画館「一角座」にて上映予定となっています。「一角座は映画の作り手による観客のための映画館だ」と、荒戸は宣言します。「ゲルマニウムの夜」は国内では一角座でしか上映しません。ですから、通りがかった映画館にブラリと入るのではなく、観たい人は、日本中からわざわざ一角座へ足を運んでいただきたいと、言います。このような方式は、日本の映画界ではほとんど他に例を見ません。



「ゲルマニウムの夜」を完成させた類い希なる才能者である大森立嗣は、こう言います。「あなたの理性や倫理、善悪で測れないものは沢山ある。世界=映画はあなたを優しく包み込む友達ではない。そして、わたしやあなたや人間がいなくなっても世界は続く。映画「ゲルマニウムの夜」を理性の歴史に委ねることはできない。慈愛あふるる神にではなく悪魔の手に委ねるしかないのだ。」と。


*「ゲルマニウムの夜」HP  


*過去の記事:芥川賞作品「ゲルマニウムの夜」映画化

          花村萬月の「ゲルマニウムの夜」
          “赤目”を体感せずして日本映画を語る勿れ

世田谷美術館の「宮殿とモスクの至宝」展を観た!


秋めいてまいりました。駐車場周辺の樹木はだいぶ色づいてきました秋ですね砧公園の樹木も色づいています。突然、家人からの電話、いま美術館員の解説が終わってこれから入るところだけど、来ないかとの急なお誘い。そうは言っても仕事の都合もあるし、う~ん、ちょうどお昼時、なにはともあれ、大急ぎで車で駆けつけました。久しぶりの世田谷美術館、いいですね、環境にとけ込んでいます。惜しむらくは道路を挟んだ反対側、背景に「世田谷市場」の巨大な建物がそびえています。また、これも巨大な「ゴミ焼却場」は、現在工事中で、建築現場には工事用の大型トラックが出入りしています。


都立砧公園の一番隅っこの敷地を、美術館を建てるということで、世田谷区が東京都から譲り受けました。美術館の設計はコンペで選ばれた内井昭蔵。元々は菊竹清訓事務所のチーフでしたが、事務所開設一作目の「桜台コートヴィレッジ」が、いきなり日本建築学会賞を受賞しました。東京YMCA野辺山高原センターは、三角形をモチーフにしたデザインで、気持ちのいい建築です。そしてコンペで世田谷美術館を獲得し、その頃からなぜか急速にライト風の装飾を多用するようになりました。内井はまた、多摩ニュータウン15住区のマスタープランを作成し、自身はマスターアーキテクトとしてデザインコードをつくり、個性豊かな複数のアーキテクトをゆるやかに統一し、全体を統括しました。69歳の若さで急逝、2002年8月6日、内井昭蔵に別れを告げる「埋葬式」がハリスト復活大聖堂(神田ニコライ堂)で行われました。



さて、世田谷美術館で開催されている「宮殿とモスクの至宝」展、なんの先入観もなく、見に行きました。それが世界屈指のコレクションを誇るヴィクトリア・アンド・アルバート美術館のものだったとは驚きでした。なにしろ第1回万国博覧会で、クリスタル・パレス(水晶宮)に展示しされたイスラム装飾品が元になっているということですから。ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館のイスラム美術ギャラリーが新装されることとなったのを機に、コレクションの中から選りすぐった作品が、世界の美術館4館を巡回する国際展として貸し出されることになり、日本では世田谷美術館のみの開催だということです。美術館の改装や増改築の時でもなければ、そう簡単に美術品は貸し出せませんよね。さすがは「アール・ヌーヴォー、アール・デコ・・・装飾芸術の源泉がここに。」と自負するだけのことはあります。


イスラム圏の文化が産み出した広範で重層的イスラム美術、古くから中東は東西交流の重要な役割を果たし、他文化を受け入れつつ豊かな発展を遂げてきました。まさにヨーロッパとアジアを結び、東西の相互乗り入れ、その接点に当たるのが、エジプトトルコ、イランの他、西はスペインから東は中央アジアの旧ソ連連邦共和国、コーカサス地方にまで広がっています。出品される美術品は、陶磁器、絨毯などの織物、金工、象牙細工、ガラス、絵画など多種多様な分野にわたっています。8世紀から19世紀まで、長い歴史と広範な地域で制作されたイスラム美術の至宝、120余点が、日本で初めて公開されました。

「白地多彩野宴図組タイル」(部分)
イラン(サファヴィー朝)17世紀

今後、館外に貸し出されることはないと言われているスケールの大きな作品がありました。高さ7mを超える15世紀エジプトの精緻な木工製のミンバル説教壇)、これは大きいのでアメリカでは上下を分けて展示されたそうです。高さ3m半を超える18世紀のオスマン・トルコの色鮮やかなタイル製暖炉、これは分解して運び、展示するために世田谷で一体に作り上げたものです。また、長さ約5m半の16世紀イランの技術の粋を凝らした豊麗な絨毯は圧巻でした。これも大きいので斜めに2枚、向かい合わせに展示してありました。


カーネーション文ビロード」、イタリア特有のザクロ文様とトルコ特有のカーネーション文様が混在しています。「イーデンホールの幸運」というエナメル彩装飾杯はベネチアガラスの起源となる技法で作られています。その他、展示品は数々ありますが、なんと言っても、あのイスラム文様が凄い。圧倒されます。すべての品々にびっしりと、これでもかと言わんばかりに細かい文様が刻まれ、また織り込まれています。淡泊な日本人にはやや辟易する感じもします。


宮殿とモスクに代表される、聖(宗教的な)と俗(非宗教的な)両面から、重層的で複雑な様相を呈するイスラム美術、こうして一同に見ることができるのも得がたい機会で、これもまた日本ならではとも思います。


世田谷美術館HPはここ

492mで高さ世界一、上海に08年完成 森ビル


森ビルは18日、上海・浦東地区で建設中の101階建て、「高さ世界一」のビルの完成時期が08年初頭になると明らかにした。資金繰りや40社にのぼる出資企業の間の調整が難航し、2回にわたって工事が中断。完成を危ぶむ地元メディアもあった。04年11月に建設を再開していた。森稔社長は現地で記者会見し「今回は完成させられる確信を持って上海に来た」とアピールした。




ビル名は「上海環球金融中心」。高さ492メートルで、アンテナなど突起物を除くビル本体の高さは世界一となる見通し。延べ床面積は六本木ヒルズ森タワーと同規模の約38万平方メートル。店舗やオフィスのほか79~93階ではパークハイアットホテルがスイートルーム中心の高級ホテルを運営する。
朝日新聞:2005年10月19日

浦東新区、近未来の開発イメージ

上海環球金融中心」の設計は、超高層ビルのデザインでは実績のあるアメリカのKPF(コーン・ペダーセン・フォックス・アソシエイト)によるものです。斬新でシンボリックな外観デザインは、国際都市・上海の新しいランドマークとなることでしょう。他に日本国内でKPFは、JR名古屋駅ビルの「JRセントラルタワーズ」、日本橋東急百貨店(旧白木屋)跡地の再開発、「日本橋一丁目ビルディング(COREDO日本橋)」、そして「六本木ヒルズ」などに「デザイン・コンサルタント・アーキテクト」として関わっています。

小池真理子の「欲望」を読んだ!

端境期」ということで、読む本と読む本の間に読んだ本ということで、小池真理子の「」については、今年の1月に記事にしました。全体的に陳腐な作品で、官能的というわりには官能的でない。確かに表紙は官能的ですが、この程度の本がなんで直木賞なの?と言いたいわけです。と、大いに皮肉を込めた記事でした。藤田宜永の「愛の領分」、偶然にも、本にも「端境期」のようなものがある、という書き出しで、10月の初めに記事にしました。読み終えた感想として、十分に齢を重ねた男が、やはり愛にも領分があったのだと気付くというお粗末な結論で、これが直木賞受賞作?、という疑問を呈した記事でした。

小池真理子の「恋」!?
藤田宜永の「愛の領分」を読んだ!



三島由紀夫邸を寸分違わず模倣した変奇な館に、運命を手繰り寄せられた男女。図書館司書の青田類子は、妻子ある男との肉欲だけの関係に溺れながら、かつての同級生である美しい青年・正巳に強くひかれてゆく。しかし、二人が肉体の悦びを分かち合うことは決してなかった。正巳は性的不能者だったのだ。切なくも凄絶な人びとの性、愛、そして死。小池文学が到達した究極の恋愛小説。


1996年に「」で第114回直木賞を受賞後、1997年、2年ぶりに書き下ろされた長編小説が「欲望」です。384ページの分厚い力作ですが、だが「小池文学が到達した」とはお世辞にも言えない、内容は陳腐で、安っぽいありきたりの小説でした。


主人公は、図書館の司書として20年も働く類子。たまたま入った「東京回顧写真展過ぎ去りし宴」という写真展で、そこに写っていたのが「袴田邸新築記念パーティ」。その様子が、類子に昔を思いさせることになります。類子阿佐緒正巳は、中学時代からの同級生、女らしく妖艶で男性の注目の的である阿佐緒、美しく知的な少年正巳、類子は美人でもなく、ごく普通の平凡な女性です。正巳は阿佐緒に引かれ付き合い始めるが、交通事故により性的不能となったあと阿佐緒と別れます。類子はそんな二人をみながら、正巳に惹かれていきます。作品の中で随所に、正巳から類子への手紙が使われます。あまりにも説明的すぎます。果たして、この手紙が必要だったかどうか?正巳が身体を使って外で働く造園業者というのも、納得できない設定だと思います。


肉欲を伴わない精神的な快楽を求める気持ちと、妻子ある男と異様なまでの性愛にふけるという、類子の中に両立して存在します。阿佐緒の歳の離れた夫袴田の三島由紀夫的なところが取り上げられ、共に読書好きな類子と正巳の間にも、三島由紀夫の作品について何度か話題にのぼります。しかし、三島由紀夫については、ここ作品の中ではほとんど空回りです。ラストが、まったく陳腐です。阿佐緒は袴田に買ってもらったばかりの自動車に乗り、自動車事故であっけなく亡くなります。正巳は遊泳禁止区域に自ら入って泳ぎ始め、戻ってきません。この二人の死に方は、いかにもありふれていて、簡単に想像がついてしまいます。


袴田の居所を当たってももらっていた写真家から電話があり、袴田の行方がわかります。類子は「女性で朗読の仕事」に応募して、檜原村に住んでいる袴田に会いに行きます。ここでも三島由紀夫の「豊饒の海」四部作の第四巻「天人五衰」が出てきます。類子がパーティの時に拾い上げた楓の落ち葉が、正巳の手に渡り、それがこの本の間に挟まっていた、しかも、その本は三島由紀夫邸を模して建てられた袴田邸の火災現場から奇跡的に1冊だけ運び出されたというのです。こんな陳腐な偶然はあり得ないです。


「何故、いまごろになって、私に会いにいらっしゃったのですか」と袴田に聞かれると、類子は「ただ、袴田さんにお会いしたかった。それだけです。」と言いながら、「かつて誰よりも深く愛した人が、あなたとどこか似ていたから・・・」、そう言ってみたい気持ちにかられたが、言えなかった。あれっ、なにそれ?つまり、この作品、「ありえね~」の連続で、至る所に作為が見え隠れしていて、リアリティがまったく感じられません。そうこうしているうちに、「欲望」映画化のニュースが!こういう映画は話題性もあるし、けっこう当たるのかもしれませんが、小説としてはテレビドラマの脚本の域を出ません。



男が不能になったら…「欲望」深く濃く描く映画
愛=SEXでないと多くの人が認めるだろう。では逆に、SEXなしに真の愛は成り立つか。この秋注目の恋愛映画「欲望」(11月中旬、東京・渋谷のアミューズCQNで公開)は、“男が不能になったら…”というテーマに真っ向取り組む。原作は女性に絶大な人気がある直木賞作家、小池真理子氏の同名小説だ。愛の深遠さを濃厚に描いた篠原哲夫監督は、「小池さんは、“性”を介在させる愛のありようを追求してきた方ですが、『欲望』では不能になってしまう男の側から描いている。なるほど、その手があったか、と衝撃を受けました。SEXはできないが、欲望はある。そんな場合、女性は精神的なかかわりを深めようとし、そうならざるを得ない、と」主人公の類子(板谷由夏)は、20代後半の独身。同僚の五郎(大森南朋)との不倫で肉体的な快楽を享受している。本物の“愛のムード”に酔える大人の映画。男を“卒業”していない人なら、必見だ。
夕刊フジ:10月17日


映画「欲望」HP

「タンタンの冒険旅行」が出てきた!


タンタンの冒険旅行」はベルギーの漫画家エルジェによって描かれた漫画です。ニッカーボッカー・スタイルもさっそうと、コートのすそをひるがえし、相棒の白い犬スノーウィを友として、チベットから南米へ、はては月世界まで冒険の旅に出かける、われらが少年レポーター、くるっとはねた前髪タンタンの物語です。原作はフランス語ですが、世界50カ国語以上に翻訳され、2億部が販売されているそうです。日本語版は福音館から、全24冊のうち20冊が日本語に訳されているそうです。


家が狭いので少しでもアキを作ろうと、家の中の本棚や押入の中を整理していたら、荷造りテープに縛られた「タンタンの冒険旅行」が出てきました。子どもが小さい頃、よく読んであげた絵本です。偶然、家に来ていた子どもに聞くと、そのうちに持って帰ると言い置いて、帰ってしまった。以前、家人に、家には絵本がないね、と言ったら、子どもの本だから、子どもが持って行ったんでしょ、子どものところにあるはずよ、と言われたことがありました。


なんだ、「タンタン」、家にあったんじゃないかと思い、広げてみると、全15冊中、14冊しかなくて1冊足りない。1冊でも足りないと気持ちが悪い。ん?全部で15冊だったかな?調べてみると、日本語版は福音館から、全24冊のうち20冊が日本語に訳されているとこのこと。またまた家人にそのことを言うと、シリーズは、全冊買ったはずだから、どこかに紛れ込んでいるんでしょ、と、かるく一蹴されてしまいました。結局、残りは未だにどこにあるのかわかっていません。はやい話が、子どもに聞けば、残りがあるのかないのか、すぐ分かることなんですが。


*「TINTIN JAPAN」のHP

小説家・大江健三郎と建築家・原広司の関係


大江健三郎の最新刊、「さよなら、私の本よ!」を購入し、読み始めています。義兄の伊丹十三が亡くなってから書かれた「取り替え子」「憂い顔の童子」に続く作品です。本の帯には「絶望からはじまる希望」と書いてあります。ところでこの本、カバーが建物の屋根の鼻先のようなものが描かれていて、本を開くと、雨樋の取り付け図のような部分と鉄骨の柱のようなものが描いてあります。不思議に思って「装画」の項をみると、そこには原広司「ディスクリート・シティ」より、と、記入がありました。そうか、これは原広司が使った詳細図、あるいは施工図の一部であり、それを「装画」として本のカバーや表紙に使ったんだ、ということがわかりました。ノーベル賞受賞作家の大江健三郎と建築家の原広司、共に東京大学卒業、ほぼ同年代で、旧知の仲のようです。



原広司は1936年生まれ東京大学数物系大学院建築学専攻博士課程修了後東京大学生産技術研究所教授を長らく勤め、1997年に東京大学を退官しました。設計活動は、原広司+アトリエ・ファイ建築研究所として行ってきました。原広司が発表する建築は常に話題に満ちています。それは常に新しい建築を模索し開発するチャレンジ精神に満ちているからです。初期の「粟津邸」や「自邸」からして“都市を埋蔵する”と言うし、「梅田スカイビル」では連結超高層、「JR京都駅ビル」ではジオグラフィカル・コンコースで谷をつくり、「札幌ドーム」ではグランドが建物に出入りするというアイディアで世間の注目を引きました。1970年代に始めた世界の集落調査が、原広司の建築活動のベースになっています。


1988年に刊行された岩波新書赤版の一冊目、「新しい文学のために」で大江は、①[あらゆる部分]。②[同じもの]。③[場所に力がある]。④[離れて立つ]離れて立て。⑤[すべてのものにはすべてがある]。⑧[伝統]ある場所の伝統は、他のいかなる場所の伝統でもある。⑩[矛盾]矛盾から秩序を育て上げよ。⑮[混成系]。を取り上げて、「新しい書き手へ」と一章をもうけています。時間軸で比較してみると、まだ単行本が出ていない段階、建築の専門誌「建築文化1987年4月号に、原の文章が掲載された時点で、大江が着目していたことがわかります。



1992年に、大江の故郷の中学校、高知県喜多郡内子町大字大瀬子にある、内子町立大瀬中学校が、原広司の設計で完成しています。この学校は生徒数84名、学級数3、職員数15名といった小さな中学校です。もちろん原は、大江の著作を丹念に調べ上げ、要所を内子町の実際の地図上にプロットする作業を行ってから、中学校の設計に入りました。その中学校の建築は「燃え上がる緑の木」の中で、重要な舞台となる礼拝堂として登場しています。物語の中では原をモデルとした人物が「荒さん」という名前で登場するほどです。



宙返り」の下巻、第17章に「場所には力がある」という章があります。そのなかで、引退した中学校長婦人のアサさんが、次のように言います。「私がテン窪で若い人たちのされることに惹きつけられますのはな、ここを設計された建築家がいわれたことですが、《場所に力がある》せいなのじゃないか?私も、場所の力ということはある、と思うんですよ。このあたりにも昔から土地の力という言い方はあるのですか・・・」


内子町立大瀬中学校

集落の教え100」は、たとえば、こんな具合に続きます。
[4]離れて立つ
離れて立て。
[12]不動なるもの
集落が好むのは、不動なるものではない。絶えざる変化であり、展開である。
[13]複雑さ
複雑なものは単純化せよ。単純なものは複雑化せよ。
その手続きの複雑さが人の心をうつ。
[16]共有するもの
人間が意識の諸部分を共有するように、諸部分がそれより小さな諸部分を共有するようにして、集落や建築をつくれ。
この方法が幻想的な世界の基礎である。
みんなでつくらねばならない。みんなでつくってはならない。
[17]飛び火現象
遠く離れたところで、似たことが考えられ、似たものがつくられている。同様に、遠い昔に、いま考えられていることを誰かが考えた。
[19]差異と類似
集落のあいだで、建物のあいだで、部屋のあいだで、差異と類似のネットワークをつくれ。
[21]物語
集落は物語である。集落の虚構性が、現実の生活を支える。


大江と同年代の建築家原広司は、長年にわたる世界の集落調査にたって「集落の教え100」を書きました。それは原の世界観と建築理論の要約ともいえますが、旅する建築家が静かに頭をたれつつ、集落の発する声に耳を傾け、それを書き留めたものでもあります。


「集落への旅」原広司著  岩波新書[黄版374]1987年
「新しい文学のために」大江健三郎 岩波新書[赤版 1]1988年


「集落の教え100」
著者:原広司  
発行所:彰国社
1998年3月30日第1版発行
定価:本体2500円+税

あらゆる無印良品がここに。「無印良品 有楽町」新世界観にリニューアル

広い空間に「無印良品」の全てのアイテムが並ぶ『無印良品 有楽町』。

8月25日リニューアルオープンした「無印良品」有楽町店2階の衣料品売場。フラッグシップショップの位置づけとなる同ショップのリニューアルは、特にヴィジュアル面に力を入れて行われました。高い天井と広い通路が特徴的な2階部分は、什器から入れ替え「無印良品」の新しい世界観を創出。空間を上手く活かしたディスプレーやレイアウトで、シンプルなアイテムを陳列しています。最大規模を誇り約5,800アイテム全てをラインナップする有楽町店では、モデルハウスの「MUJI+INFILL 木の家」も併設。また素材やディテールにとことんこだわった「MUJI LABO(ムジ・ラボ)」が同店限定登場しています。「無印良品」の全てが詰まった無印良品有楽町で、この季節に欠かせないアイテムや先取り商品を見つけて。
ファッションサイト:10月15日




新しい無印良品の世界」を展開する店舗として「無印良品有楽町」をオープンしたのが2001年11月1日、今から4年も前になるんですね。最近リニューアルしたと聞き、行ってきました。いつ記事にしようかと迷っていましたが、なかなかキッカケがつかめずにいたら、上記の「ファッションサイト」の記事が出ていました。僕の主たる興味は、大空間の店舗を体験しておくこともありますが、モデルハウスの「MUJI+INFILL 木の家」の方でした。やはりそこに住む住宅として見ると、薄っぺらな印象は拭えませんでした。住宅は建つ環境も大事屋根のないモデルハウスなんて、実感が湧きません。モデルハウスは有楽町以外にも世田谷千葉にもあり、その他にも続々誕生しているようです。





「無印良品 有楽町」
住所:東京都千代田区丸の内3-8-3インフォス有楽町2・3階
営業時間:10:00~21:00
http://www.mujiyurakucho.com/ (無印良品)
問合せ03-5208-8241(無印良品 有楽町)

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